事の起こりはといえば、まぁ、いつもどおり、あのちびすけのルカ・ルサルカだったのだ。 マリア・クレスト号の荷受けをぼさっと見ていた、かと思えば手伝いたがった。 日銭稼ぎの浮浪児にしては身なりがいいし（どだいテリメインは浮浪者に優しくない。なにせ地面がほとんどないのだから）、こどもの掏児にしては逃げない。 昼飯の時間までそうして殊勝げに、可愛げに、荷受けを手伝っていれば、まぁ乗組員も多少ほだされてしまうのだった。 まるで港で猫にでも行きあったがごとく、昼飯の分け前を用意しようという声が上がり、こどもは乗組員たちのご相伴にあずかって—— ——で、だ。 「る、ルカくん、やっとみつけたの！心配したの！」 昼食を取っていた乗組員とルカの所に、白いドレスの少女、レイクニヌがやって来た。 あちこち動き回ったにしては風体が綺麗で、ただその表情にばかり憔悴が現れていた。 沼色の瞳はたぷたぷと水面の様に水分を湛えて今にも泣きそうなのだ。 齢十を超えたばかりの少女は、こどもの保護者というにはいささか幼かったけれど 「ルカよぅ、お前の姉ちゃんか?」と乗組員の一人が問えば、 ルカは「まぁ、そんなとこだ。こないだうちに会ったばっかの、遠縁の遠縁のねーちゃん。あいつ、ルサルカだから」と応えた。 乗組員たちは、ほぉ、とか、はぁ、とか、いろいろに声を上げた。 こどもが名前の末尾にもつルサルカという名は、 その村の名前になっているルサルカという名は、 なにぶん内陸のもので、知名度が低かった。 それでも水精の仲間で、セイレーンじみて人を惑わす女の化生であるのは伝わったらしい。 乗組員達は口々に、 「こんなちんちくりんが」「エルマーでもひっかかるトシかあやしいぞ」「俺が尺度なのかよ」「じゃっかんイメージと違う…」「あと5,6年位してから出直した方がいいんじゃないか」「いや、このくらいが一番」「おい今、性癖告白したの誰だ」「それで」 冷静な男の声がして、天使が通り過ぎた。 というには長い沈黙。潮の音、別のグループの話し声。全部、少し遠くの音になった中を男の疑問が刃渡りの短いナイフみたいに少女に突きつけられる。 「歌いに来たのか?」 どうということもなく レイクニヌは頷いた。 男は眉をひそめた。 沈黙が続いて、雲行きのあやしくなったというか、道行きのあやしい話。 船というのは生存のための密室だ。海の道行きを誤っても、そこから逃げ出しても命がない。 水精が歌うと言い切ったのを聞いて気分のよくなるものはいない。 「歌うの、好きなの。 　でも、歌ったらみんな死んじゃうの。 　わたし、それがいやなの」 要領を得ない話し方をする少女の話を総合すると、レイクニヌは海に「にんげんになる」魔法を探しに来たのだという。ルカは、まぁ、オマケみたいなものだった。 「水の精なら、海くらい大丈夫なんじゃないのか?」 「海の水は、しびしびするの。それに、ルカくんは人間だもの。 　だから、ルカくんだけでも船に乗せてほしいの」 「ふぅーむ、そういうことなら船長に聞いてやらんでもない」 「ソンのにーちゃん気前いー！」 ジョンソン。いやに冷静な声をした男は無表情にルカの頭を撫で繰り回しながらそこそこ気のいい返事をした。 懐疑の声が上がったが、乗組員同士が、「ちびすけが今まで死んでないから大丈夫だろう」「ウチの船のあれも女だろう」「お嬢さんもいるしなぁ」「そういえば、昨日からお嬢ちゃんきてるぞ」「じゃあ船出までは安泰だな」とかなんとか、うやむやになる声の方が多いもので。 --------------------- 「フィン、ちゃん。っていうの？」 「はい。レーヌおねえさん、ですか？」 二人は名前を確認すると、顔を見合わせて笑った。 レイクニヌと顔を合わせているのは、カナリアみたいな童女でフィンという。 乗組員がお嬢さんといえばこの子のことを示すようで、行く先々でかわいがられていた。ルカと同じくらいの背を、柔らかな金色の髪が流れておちる。滝のように。というのは比喩ではない。なにせ地につくほどに長いのだ。 日向が似合う童女は海の話を聞きたがった。 「レーヌおねえさんは、海に入ったことがあるんですか？ 　海であそんじゃ、だめ、ていわれてるんです」 「あるの！とってもきれいで、水面を見上げると光がきらきらしてきれいなの。 　でも、何も持たずに海に入ると、なんだか身体がしびれてくるの。 　あぶない、かもしれないの。」 「はわわ……」 二人が話しているのはマリア・クレスト号のデッキだった。 デッキチェアにクッションをしいて、ふかふかと日向ぼっこを満喫中。 二人がどうして話せているのかといえば、それはもちろんルカだけでなくレイクニヌにも乗船許可が下りたからだった。 船長曰くに、二人連れを引き離す方が野暮じゃないのか。と。 フィンの座るデッキチェアがきしりと後ろに倒される。 気の抜けた童女の声がして、レイクニヌは椅子を後ろに倒した人物を見上げた。 血より葡萄酒より、陽を見た後の瞼の裏より赫い髪のうつくしいひと。 「しゅとー！」 フィンが親愛を込めた声でそう呼ぶから、それが彼の名前なのだろう。 「はいはい、おやつを持ってきたよ。……新しいトモダチかい？」 「うん！」 しゅと。改め（二人の話の中で、もうちょっとまともに名前が出てきたのだ）ストーニクがレイクニヌの方を向いた気がしたから。「こんにちはなの。」と挨拶を返す。 ひらりと手を揺らす仕草でそれに応えたストーニクが豪奢な袖口から取り出したのは、いましがた飾り切りの施されたばかりだろうあかい西瓜だ。水気を含んで何処までも均一な色をしていて、種の一つも見当たらない。 「はい、これ、うちの庭で取れた西瓜。 　塩をかけるとおいしくなるかもね」 「じゃあ、海につけてみるの！」 手渡された西瓜フィンは両手で受け取ると、実に素直に甲板から西瓜を海に向かって落とした。エルマーの「おい！」という声がしたが時すでに遅し、西瓜は波間に、パリンと砕けて消えた。まるで硝子の割れるような音がしたからレイクニヌはびっくりしてしまった。 「塩は塩でも、あの海の塩はだめだよ。海に入ったりしてないだろうね？」 「してないの。エルマーにずっとだめって言われてて……」 「賢明だね」 ストーニクは肩をすくめた。それにフィンが、でもね、とか、ええと、とかそんな言葉を続ける。 「レモンでレモネードつくりたいの！ 　お船の下に、くだものがたくさんのばしょがあって。でも、お水が…えぇと？」 フィンはエルマーを振り返る。 エルマーというのは少年で、乗組員の一人だった。 彼は年少者の取りまとめ役でも任ぜられているかのようだった。 「お前…文字通り命に関わる話だからちゃんと覚えとけよ…。 　海水はフィンにとって危ないから、精製した水もなるべく避けたほうがいい、って言われたんだろ？」 ほら、とエルマーが童女が斜めがけした水筒を示す。この世のものとは思えない細工の施された硝子の水筒。その中で童女が持参してきた水が揺れていた。ますでそれ自体も硝子のような輝き。 塩も水も彼女にとって害ならば、あるいはその水筒さえ、精製水に触れれば割れるのかもしれないといった繊細さを有している。 「だろうねぇ」 その水筒を持たせたのが誰であれ、そこにそれがあることをあらかじめ知っている声でストーニクは相槌をうった。 「……お水、のめないの？」 レイクニヌはどことなくしょんぼりとした声でフィンに聞いた。 日向ぼっこをするのに、その水筒は小さすぎるように思われたのだ。 フィンがこくりと頷いたから、 「あのね、わたし、ちょっとだったら、お水出せると思うの。 　テリメインの水じゃあ、ないの。」 「ほんと、ですか？ 　それを使ったら、レモネード！」 うきうきしだしたフィンがまわりを見上げても、否というものが一人もいなかったから、彼女は硝子の水筒のふたをくるくる回して取り外す。 こっぷが出来上がればレイクニヌがコップのふちを軽くなぞり、「プロッシーム・ウッディエートミ・プラーニー」と唱えた。 たぷり。硝子の水筒の蓋は硝子でできていて、だからそのコップも透明な硝子でできていた。それがレイクニヌの生み出したもので満たされる。 それは透明ではない水だった。 ありていに言うと泥水だった。 地の文に美文を描こうと頭をひねっても、それ以上の形容が出てこない。 レイクニヌは水の精だったが、その住まうところは沼であって、清水ではなかった。 うっ、と声を上げたのは、誰あろうレイクニヌだった。飲める代物には思えなかった。 どう謝ろうとおろおろしているうちにストーニクがフィンの持つコップに指を差し入れる。白い指を泥水に浸し、いくらもしないうちにひきあげた。少なくとも不機嫌ではない、といった調子の無表情さ。 「これだったら君が飲んでも大丈夫だよ。」 「ほんとう？」 二人の会話にレイクニヌは何度も目をぱちぱちさせた。 なんてったって、これは駄目だと最初に思ったのだから。 それなのに、目の前の童女は泥水の入ったコップを愛おしそうに手に取って、こくこくと飲み—— 「何やってんだお前」 ルカのどんびいてる声がするより早く、童女は咽こんでいた。 「土の味がします……」 「……ばかだろ。おまえ」 「だって……しゅとが、だいじょうぶってぇ……」 あきれはてた、という感じで雑に罵った。 こどもが胡乱な目で、ストーニクを見上げる。 言葉にすると信じられない。といった風情。 何を信じろというのか。水が安全なことなのか。 泥水を飲んでいいということなのか。 そっちにしろそもそもそれは——…… 「信じられないのは君の方だよ。誰に許可とって、フィンにそんな言葉をかけているのかなぁ？」 けれど帰ってきたのはにべもないつめたい視線だったから、こどもがストーニクから一歩遠ざかる。引く相手が増えたらしい。 「わ、わたし。きれいな水が出せるように頑張るの！」 レイクニヌがなにか決意している横で、エルマーがタオルを持ってきてフィンの背を撫でている。曰くに、「大丈夫か？吐き出せるか」と。 赫い言葉が「必要ないよ」と云う。 続く言葉、が続く前にシーサーペントの女がひょいと顔を出した。 「あら、それって私が飲んでも大丈夫な奴かしら？ 　だったらぜひ頑張ってほしいわね」 水の需要はそこそこあるらしい。 それでその場はお開きになった。 これがテリメインに来てすぐの、 レイクニヌがまだトールキンの珠卵を見つける前の話だ。 ----------------------- PNo.872 má speciální vystoupení.

	穏やかな海《セルリアン》

穏やかな波、暖かい水温。太陽の光を透かし、キラキラと輝く水中に、
光とともに舞うように鮮やかな熱帯魚達が珊瑚礁に集まる海域。

この世界の窓口である探索者協会からも程近いこの場所は、
色々なところから集まってきたバカンス目的の観光客や、
これから冒険に挑もうとするものたちで賑わっている。

比較的凶暴な生物もいない、穏やかな、冬でも温暖の海である。

遺跡探索

レーヌは、この世界の探索者としての一歩を踏み出した。
海底に沈む遺跡の探索——。

誰もがこの海の、この遺跡から冒険の一ページを刻み始める。
とはいえこの辺りはまだまだスタートライン。

もっとこの世界に眠る、謎や宝や未知の生物を目にしたいと願うなら、
このセルリアンの遺跡を抜け、さらなる海域を目指すといいだろう。

海はまだまだ遠く、広がっている。