ちらりと、みんなの事がよぎった。
"イース"として言葉を交わすことのなかったヒトも、それなりにはいる。
けれど、ぼくらは思ったよりはずっと多くの言葉を、此処で得る事ができた。
確証はないけれど、きっとぼくらが、いくらかでもかつてを取り戻せたのは、きっとそのお蔭だったろう。
尤もその結果が今こうなっている事を考えたら、ちょっとだけ、違うかな。
けれどそれはもう、結果なのだ。
得た縁も、過ごした時間も得た想いも、逆さに覆って無には戻らない。
それで行きついた先が此処だというなら、ぼくらはそれに従って、尽くすのみだ。

どれくらいが、経っていただろう。
——ぱあん、と割れる音がした。

しいんとした部屋に響いた破裂音。
目の前に意識を傾け過ぎていたのだ、と思う。
放出が滞る。
途切れれば、また、先ほどまで部屋を満たしていた静寂が降りてくる。
——音の意味は、考えるまでもない。
振り返ったら、そこには‥居る、だろう。

「‥‥」

こうなることだけは避けたかったのに。
——名前を呼ぼうとして、既に何時もの調子では喉が動かないことを悟る。
幸か不幸か。
脚も既にそんな塩梅のようで、声と共に振り返ることはなかった。
‥沈黙が続いている。深く息を吸い込んで、ぐっとお腹に力を入れる。

「早かったんだね」

響いた声は、きちんと声になっていただろうか。
‥こうなることだけは、避けたかった。
こうなってしまう前に、此処から去って、消えてしまう積もりだったのに。

こうなってしまったら、ぼくらは。
はっきりと、別れなくちゃいけないじゃないか。

「フョードル」

笑う膝。
必死に身体が震えない様に力を振り絞って身体を繰る。
視線を投げれば、いつもの様子で、漂っている。
ふわ、ふわ。
沈黙を守れば、どんな表情をしているかは判らない。——はじめは、結構惑わされたっけ。
あれから、どれくらいが経っただろう。
不相応な速度で成熟を重ねてはいるものの。
未だ多くの点で未熟さを残す、生まれてそう経たぬであろうエンブリオ。
はっきりと云える。
一方的に思うのではなく彼は、ぼくらの、トモダチだ。

————。

ちらりと、偽ってしまおうかという気持ちが芽生える。
もし、ぼくらと、フョードルが。
此処でトモダチで在る事を辞めてしまったなら‥しばらくはショックを受けても、それほど悲しむことはないだろう。
具体的に、向ける対象のない気持ちというものは、年月で簡単に風化する。

今置かれている状態を、考える。
多分、もうぼくらはどうしようもない。
"父親"は、——微かにだけれど、感触があったと思う。
今は、五感に蓋をされているようにも思えるから断言はできないけれど——悪い予感も、幾らかは遠のいた。
博奕だった。
でも、——変転がもたらされ、ストゥーラの意もぼくらに力を貸してくれたのかもしれないけれど。
少しはうまく、転んでくれたのかもしれない。

"父親"は、このあと来るという医者の手によって施されるのであれば、戻ってくるかもしれない。
でも、ぼくらは、そうではない。

フョードルのことを考えたら、ぼくらは更にフョードルを裏切るべきだ。
傷つけて、呪われて、憎まれ乍ら消えるのが一番この子の為にはなる。
——その気持ちを向けるべきぼくが、此処から消えてしまって。
矛先を失ってしまえば、その気持ちはやがて必ず薄れる。
少なくとも——
それが自分に向いてしまうよりはずっと、楽なはずだ。

睨み付けようとして、気持ちを其方に傾けたのが、下手だった。
膝が、折れる。
辛うじて保っていた場所だ。
崩れてしまえば、持ち直せるはずもない。

前のめりに倒れた、身体。

——耳を打ったのは、"トモダチ"の声だった。

「いーす」

微かに、震える声は。
不信の響きなんかよりも、ずっと。
ずっと、"トモダチ"としての響きを帯びていた。
駄目だな。
こうなってはもうぼくらでは欺けない。
悲しいのかな。
嬉しいのかな。
多分なにもかもがない交ぜになって、喉からはただ、ぐうと唸るような声だけが漏れた。
偽れない。
じゃあぼくらは、何を語るべきなんだろうか。
いくら多くを語る事が出来たとしても、ぼくら自身を残すことのできないぼくらは、何を語るべきなんだろう。
——たぶん、フョードルはまだ。
漠然とは理解していたとしても、故に焦燥に駆られていたとしても。
実際に誰かが欠ける、という体験を経たことはないはずだ。
それはきっと、大きくフョードルを揺るがし、成長を促すかもしれない。
しかしそれは良くも、悪くも転ぶだろう。
トモダチは、言い方は悪いが、代えがきく。
"親"とは、違う。
けれどそれが初めてで、死別だったらどうだろう。
——だからこそ、此処から消えておきたかったのだけれど。
せめて、トモダチであることを否んでおきたかったのだけれど。
けれどぼくらは、ぼくらだ。
促されては、本心に抗えない。
そんな風に言葉に迷っているうちに。
——ぼくらの身体は、ぐい、とひっぱりあげられた。
顔と視線を持ち上げてみれば、今のぼくの身体をひっぱりあげる事の出来る容がある。
もう一度言葉を投げかけられるのは、流石に失礼だろうなあ。

「ありがとう、ふょーどる」

——逞しい身体。この"父"が倒れてから、ぼくらは幾度とこの巨躯の隣で戦い助けられた。
爪を剥かれたことも知らない。
牙が届きそうだったことも知らない、"トモダチ"。
促されるように、身体を預ける。
凭れ掛った処で——、どっ、と疲労が押し寄せる。
と、ともに。
降りていた変転が、終わる。
伸びていた背が、縮む。
肩に伸ばす腕も、失われる。
何時もと同じように、けれど唐突に変転は終わった。
けれどその喪失感は此れまでの比ではなかった。
マァムブの力を借りた侭で尚も、殆ど行動できるか否かの瀬戸際にあった身体。
力が抜け落ちてしまってからはどうやら、もうその一点はとうに越えてしまっていたようだった。
随意に、ならない。
頭をあげることも。前肢で身体を支えることも。
翼を動かすこと‥いや。尾の先だって、動かすことができるか、怪しい。
ずる、と再び崩れた身体は、今度はエンブリオの泥の腕の中に落ちた。
——いつか、今傍らに横たわる"父"が抱かれたように。
ちいさくなったぼくらの身体は、おおきな腕でしっかりと留められている——

「‥ふょーどる。‥あのね、みずの‥あるとこ、つれ‥もらえる‥？」

片言を演じていたときの苦労が嘘のように、自然に言葉は、口から滞りながら滑り落ちる。
一言一言を吐き出すたびに、呼気が、乱れる。
フョードルは、エンブリオは。
うん、と短く応えただけで静かだった。
——何をしていたのかも。ぼくらがこれから、どうなるのかも。
それとなく、察しているように感じた。
‥ぼくが、そうあって欲しいと願うから、そう見えるのかもしれないな。

----- ----- -----

吹く風が、なんとなくそこはもうマァムブの外で在る事を伝えていた。
より近いマァムブ内の水場を選ばなかった理由は判らない。
恐らくはぼくらの状態に依るのだろうけれど。
‥そして幼さを残しながらも確実に持っている、観察と判断の聡明さにも依るのだろうけれど。

——滞った水よりは確かに、ぼくらの身体には流れる水の方がずっとずっと相性がいい。

下半身が浸かる状態で横たえられて、漸く少しだけ、心地がつく。
倦怠感に負けて、瞑っていた瞳を開ける。

フョードルは今まさに、ぼくらを此処に運ぶ為の身体を崩しているところだった。
もう幾度か見慣れたその様子も、‥こうやって地に這いながら見上げることはなかったな。
汚れることもない飾り紐は、本体に促されて揺れる。
本体は日光を跳ねてきら、と輝く。

——いつかと同じように、けれど、過ぎた日とは同じようで違う意味で。

ぼくらは、欲し求めた。
あの日空を掻いた爪、宙を咬んだ牙。
同じような軌跡で伸びた前肢と咢。
ふわ、と避けてくれたあの瞬間を坂回しにするように。
"トモダチ"はそっと、降りてきてぼくらの爪にそのちいさな身体を寄せ、口許にも、代わる代わるその輝きを滑らせた。

あたたかいな。
忙しなく動いては、‥ぼくらを一生懸命に覗き込む。

ああ——、瞳が映りこんでいる。
きらきらと光る身体に、申し訳なくなるくらいに、生き得る気配の希薄な瞳が、映り込んでいる。

ぼくらは何をしなければいけないのだったか。
嗚呼、‥フョードルに、ぼくらは伝えなければならないのだ。
伝えなくては。

名前を呼ぶ。
何時もの調子で、口を動かす。
——うまく、発声できなかったのかと思ってもう一度、口を動かす。
‥強く吹いた風が頬を撫でた。
漸く静かすぎることに、気が付く。

きちんと声を出せているのだろうか。
今、こんな状況でぼくらは、"トモダチ"を呼ぶことができたのだろうか。
わからない。‥わからない。
ただ——いつか、"トモダチ"の表面がいつかのようにじわ、と滲んだのが見えた。
本当に滲んだだろうか？それも判別つかない。
じわりじわりと、けれど確実に。
まだはっきりしている‥と思う、意識に反して身体の全てがぼくらから離れていく。
あとどれくらいが随意になるだろう。
今出来る、"トモダチ"への最善はなんだろう。
語ろうと思ったコトももう、語れないぼくらが出来ることは何だろうか。

（ふょーどる）

聞こえているのだろうか。
それとも単に、この口の動きに反応しただけだろうか。
心なしか潤んだ表面が動きを停める。この子自体もまた、顔に近い場所でぴたりと停まる。
届いて、いるのだろうか？

（いーす、すこしつかれちゃった）

せめて微笑くらいは湛えようとして、それが仇になる。
薄く絞った瞼は、ただ無為に今持っている視界を手放すだけの結果になった。
フョードルの全身が、見えなくなる。
案じたフョードルがより近くなる。‥案じさせては、本懐から逸れるというのに。
力を込めても、三日月よりも痩せてしまった視界はもう、もとに戻らない。

（しばらくここでやすんでマァムブにもどるね）

きっとフョードルは信じてくれないだろう。
わかっている。
もう、フョードルが何を云っているのかぼくにはわからない。
ただただ潤う表面に堪えて言葉を待っているのか、狂乱して叫び続けているのかも、わからない。
でも、フョードルはまだ、此処にいる。
誰かを呼んでくるでもなく、目を背けてしまうでもなく、ぼくの前にいる。
思い出したように寄せてくる身体は、あたたかいように思う。
——今か、或いは、少し後か。
それを悟るであろう聡さに、ぼくを測るであろう優しさに甘えるぼくは、きっと狡い。

（おいしゃさん、たぶんそろそろくるよ。‥いーす、かならずいくから、まってて）

——身体の終わりが近づいている。
視界は益々痩せていく。果たして、声は本当に絞れているのだろうか。
伝わっているんだろうか。
声が届かないでも、気持ちがせめて—。

（かならず、かな、——）



（——————）

貰ったら、枯れてしまいそうさねと少し困った顔をする衛智。
感覚があるのか聞きたかっただけらしい。

得意げに張られた胸を軽く叩く黒虎。

そのまま試しに、鬣を持って背中に乗ろうと試みるが、うまく捕まる場所がみつからない。
ふと、ある部分を掴もうとした時、バランスを崩し—



　　　　　　　　　　　　—危なく封真に掴まれる。首根っこだ。

宙ぶらりんになった黒虎がイースの顔を覗き込みニッと笑う。

衛智がつかみ損なった鬣には、変わらず、赤い花が揺れていた。

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