その夜、ルカは夢を見た。

　此方の世界──“メルンテーゼ”という名の世界だと知ったのも、つい最近のことだが──に迷い込んでからずっと、眠るたびに夢を見れば、自分の夢の中に住みついた青白いウサギのような姿をしたエンブリオ“レーヴ”の夢ばかりを見ているのだが、その夜は違った。
　何故かは分からないが、その夢にレーヴの姿は何処にも無かった。

　レーヴの姿が無くとも、それが夢だと分かったのは、それが自分の過去だったからだ。

　忘れかけていた、と言うよりは、どちらかと言えば、思い出したくない類の過去だった。
　思い出さないように蓋をして、隅の方へ追いやっておいた、ような。 そういう過去だ。

　だからだろうか、決して、辛いというわけではないのだが、思い出したくなかったから、だろうか。

　ふ、っと目が覚めた時、ルカの視界は滲んでいて、よく見えなかった。



＊

＊

＊



「シズー……？」

　扉をノックしても返事が無くて、ルカは首を傾げる。
　シズに限って、まだ起きていないなんてことはないだろうし、ならどうしてと考えて、嫌な予感がした。
　ここのところは、シズの体調も落ち着いているのか、あまり、具合悪そうなところを見ていない。
　けれど、急に体調を崩すことがないなんて言い切れないし、今までにもそういうことは何度かあった。

　ルカは（シズが話さない所為もあるのだが）、シズのことを良く知っているかと言うと、そうでもない。
　少なくともルカ自身にはその自覚もあって、シズの知る自分に比べ、自分はシズのことを知らない、と、そう。
　たとえば、シズは身体が弱いと知ってはいるものの、どんな病気なのかは知らない。

　シズが薬を飲んでいないことは知っている。
　此方の世界に来る前からもそうで、けれど、病気のことをシズに訊いたことは、あまり無い。
　何度か訊いたことはあっても、教えてくれるかと言えば、ノーだった。
　触れられたくないことだ、というのもそうだろうし、ルカが思うに、知られたくないのでは、と。

「シズなら、さっき出掛けたよ」

　弾かれたように、その声に振り向く。
　黒く長い髪を、黄色いリボンで結いながら部屋から出てくる、アリシアの声だった。

「……おはよう、ルカ」
「あ、お、……おはよ、アリシア」

　部屋の主が居なければ開く筈も無い扉と、ルカとを交互に見、

「……シズに用事？」

　と、小さく首を傾ぐ。
　すれば、アリシアの黒い髪が首の動きにそって流れるのは、本当に、ごく自然なことだ。
　自然なことなのだが、それだけでルカは見惚れたように、なってしまって、

「……、……」
「……ルカ？」
「えっ、あ、ああ、あ、えええと、……おう、用事、シズに」

　ワケも分からず、必要以上に頷いて返した。
　何を慌てる必要があるのかも分からないし、そもそもどうして、彼女の仕草の一つで、こんな。

　そもそも今日はこれから、今まで足を運んだことがない場所へ赴くのだ。
　新たなエンブリオとの出会いを求めて、同行する、という形で。

「シズ、何の用事だって？」
「……そこまで私も聞いてない。 けど、本当にさっき。すぐに戻るって」
「そ、っか」

　聞けば、出掛ける前にシズがアリシアの部屋に立ち寄ったらしい。
　すぐに戻る、ということだからか、部屋の鍵は開いていたし、荷物も部屋に置かれたままだった。

「シズの荷物持って、外で待っていた方がいいかもな」
「……行き違ったりしない？」
「……するかも」
「……待ってよっか」

　シズの荷物を部屋から持ち出し、扉を閉める。
　そうして、アリシアと二人、きりになった。

　ふと考えてみると、アリシアとルカがこうして二人きりになるのは、

「──っあ、」

　あの雨の日以来だ、ということに気付いたルカが思わず、だった。
　よく分からないまま片手で口を覆い、よく分からない気恥ずかしさに目を瞠ったような、顔。

　よく分からないまま、じわじわと顔が熱くなるのが分かった。

「……ルカ？」

　どうかしたの、と、問い掛けるアリシアの声音は不思議そうなそれで、それだけだ。

　二人きりになったことだとか、それがあの雨の日だったことだとか、その時、あの彼女の笑った顔に、潤んだ菫色に、声に、息が詰まるような、胸の辺りが痛むような、そうした惹かれ方をしたことを思い出して、そんなことを意識しているのは自分だけだと、流石のルカにだって分かった。

　ルカが自覚したのは、それだけではない。

「な、ん……っなん、でも無い！」

　ふるふると首を横に振り、気付かせまいと笑ったりした。
　笑ったりなんてしなくたって、きっとアリシアが気付くことはないだろうと分かるのだが、どうしたって笑顔が付いてくる。
　そこまで特別、意識をしているワケではない。
　どちらかと言えば無意識に等しいだろうし、癖、と言っても間違いではない、ような気がする。


（　すき、なんだ、　）


　他でもない、アリシアが。
　それがどうしようもなくて、切なくて、けれど、アリシアと、シズと、自分の関係が壊れてしまうことの方が怖い。
　三人、一緒で居られなくなるくらいなら、彼女が何にも気付かないでいてくれた方がずっといい。
　そもそも、アリシアのことを好きなのは、自分だけではないのだということにも、ルカは気付いている。


（　シズ、だって、　）


　自分と同じように、シズもアリシアのことが好きなんだと気付いている。
　シズがアリシアのことを好きだと、ルカが気付いたのは、ルカ自身がアリシアのことが好きだと気付くよりも前だ。
　勿論、シズの気持ちにだって、アリシアが気付いていないことは、

「……シズ、何しに出掛けたんだろうね」
「ほ、……ほんとな、何、してんだろ」

　アリシアを見れば、分かることだ。
　彼女は、彼女が思っている以上に、思っていることが顔に出るタイプだから。
　繊細な感受性を、その内側に抑え込んでいるつもりが、抑えきれずに零れていることだって、珍しくない。
　挙句、爆発してしまうことだってあるのだ。

　しっかりしている、とは思う。
　けれど、そうした不安定さも彼女にあることを、此方の世界に来てから知ることが出来た。
　そうして近付けたことは、決して悪いことではないと思う。
　し、この様子では、気付いていないだろうと分かる。

「……シズ、大丈夫かな」
「は、……っえ、」
「何処かで具合、悪くなったりしていないと、いいなって」
「あ、ああ、……大丈夫、じゃねー、かな」
「……うん」

　アリシアにとって、シズは（少なくともルカより）頼りになる相手、だ。
　が、身体が弱い所為で、そういうわけにもいかなくなってしまっている。
　シズは、アリシアにとって庇護対象であるのかも知れない。
　ルカが知っているうち、シズのことを一番気に掛けているのは自分ではなく、アリシアだ。
　し、自分よりもずっと鋭いシズのことだから、シズ自身はそのことに、もっと早くから気付いているだろう、とも思う。


「……あ、あの、さ、アリシア」
「？」


　ルカの呼び声に、アリシアが振り向く。
　ふわりと揺れる黒髪に、澄んだ菫色に、どきり、とする。


「オレ、さ、シズに、此間言われたんだ」
「……なんて？」


　特別、意識する必要なんてない筈だ。
　好きだと伝えるわけでもないのだから。
　
　それでも何となく、顔が熱い。


「……アリシアは、お前が守れ、って」
「……シズに？」
「シズは、戦えないから、オレに任せるって、そういう意味、だと思うんだけど、」


　アリシアが複雑そうな顔をする。
　それだって、ルカには分かる。
　アリシアが自分やシズのことを守ろうと思ってくれていることには、気付いている。


「……じゃあ、シズのことも、ルカが守るの？」
「おう」
「……なら、ルカのことは誰が守るの」

「────っ、へ」


　ルカが目を、丸くする。
　そんなことを言われようとは想像もしていなかったし、考えてもいなかったと言えば、そうだ。
　シズなら、自分の身くらい自分で守れと言うのだろうが、何だか少し、むっとした顔で、アリシアが続ける。


「じゃあ、私がルカを守るよ」
「っへ？！！」
「……だって、ルカばっかりは駄目だと思うから」


　今更だと言えば、そうだろう。
　彼女がこの世界で身に付けた治癒術が無ければ、ルカが戦うことは難しい。
　アリシアに助けられているという自覚はあったが、守られる、とは。


「それなら、おあいこ、だよ」


　言って、アリシアは小さく、小さく笑ってみせた。
　それだけだ。それだけなのに、驚いて目を瞠ったルカの顔が、見る見るうちに赤くなる。

　二人きりだから駄目なんだ。
　シズか誰か、居てくれさえすれば、こんなに苦しくなることだってない筈なのに。

己の頭を指で指し示しながら、そんなことを問うてみたり。

隠し切れない溜息が漏れ出でて。
己の手に向けて、ちらりと視線を向けている。

小さく言った言葉は、興奮気味のルカに届いたやら。
なんだか申し訳ないような気分になっているのかもしれない。

それから、ルカの、コウノトリに関する解説を聞いて、なるほどと。

などと、ルカをちらと見て言ってみせる。びみょうにひどい。

と、小さく息を吐く。
諦めたように零していた。

二人とも、ただただ驚くばかり、といった風で。
イェジに至っては、珍しく目を丸くしている。

小さく首を振ってから、言葉を肯定して。

ぽつりぽつり、静かに気持ちを明かす。
だいたいは、私が悪いんですけど、と情けなさそうに呟いて。

これからは、頑張ってみます。そう言って、へら、と笑う。

だから大したことじゃない、と照れたように、頬を掻いて。

　人狩りについて聞けば、神妙な面持ちで頷いて。

　目を逸らす様子に、緩く首を傾いだ。

　そうすることが、彼らにとっては良いのだし、喜ぶべきことだ。
　それは分かるのだけれど、少しだけ、寂しいとも思ってしまって。

　複雑そうに、そう言った。

　彼の口ぶりからして、そんなことはなさそうだけれど。
　そんなものを作れるのか、と。驚いたように言う。

作製依頼受け付け中
Lvは17、依頼の際は詳細をホームで確認した後
ホーム、もしくは伝言にお願いします。