（今回の日記はEno.200　ユパックのものと合わせてお読みください。
　こちらには音声、あちらに絵日記があります）

森を歩く。
どれほどの時間が経ったか分からない。
けれども不思議と身体に疲れはなく、少年は虚ろな表情で護りの森を彷徨っていた。
ただ奥へ、奥へ。
誰にも出会わなくて済むように。

ブラッククロニクル。その力が表出した時、柊　魔異はすべてを理解してしまった。
自身の本来持っていた能力と、その意味に。

それは、全ての過去を欺く瞳。世界に嘘を吐き続ける右眼。
改竄、改変の力。カノッサ機関の誰もが知りえなかった『存在しない筈の邪気眼（ナンバー・ゼロ）』の正体。
不変である筈の邪気眼の能力が、進化し続けたその理由。

つまるところ、『カゼヨミ』などという力は、最初から存在してはいなかったのだ。

邪気眼とは、力ではなく、呪いである。
その力には並々ならぬ代償が伴い、それは人一人の身にはあまりにも重過ぎた。
だから例外なく、その能力の行使者はひとつの『想い』に取り憑かれ、徐々に人の心を失っていってしまう。
『炎上』の瞳であるバーニング・ダーク・フレイム・オブ・ディッセンバーは、全てを塵芥に還さなくては正気を保っていられぬ『焼却』の衝動。
『凍結』の瞳である『エターナルフォースブリザード』は、他者を永遠に自分のものとして孤独を埋め合わせんとする『切望』の衝動。

そして。
　　　黒　　　歴　　　史
『異形へと変わった妹』を消し去る為に能力を覚醒させた彼の負うべき対価もまた、その能力の発現に呼応して。

彼に、『殺戮』の衝動を課す。


——・・・


「マコトさん！！」

呼ばれた声に振り返った少年の表情は、感情の色の見えない菫の瞳。
僅かに口が動く。小さく言葉が紡がれる。

「……ユパ？」

今まで弓使いの少女が見たこともないような、冷たい眼差し。
少年らしからぬ、無感情な言霊。変わってしまった、柊　魔異の姿。

「良かった、追いついた……」

息を切らしながら、ユパックは少年の背後から前へと回り込むと、「大丈夫ですか？」と声を掛けた。

「……俺は無事だよ。でも、君は早く逃げたほうがいい」

息も絶え絶えな彼女の様子を気にも留めずに、少年は淡々と告げる。

「此処に来る途中に見ただろ。あれは、俺のやったことだ」

「！！」

少女の瞳が驚愕に見開かれる。
顔の見える位置へ移動してきたユパックは気付いてしまったのだ。
少年の学生服に付着した夥しい量の返り血と、破れた袖から見える異形の双腕に。

「どうし…………怪我は、痛みはないですか」

「とりあえず戻りましょう、トウカさんも無事です」

おろおろとしながらも、彼女は必死に少年を励まそうと言葉を尽くしているようだった。

「どこも痛くないよ。……これは俺の血じゃないから」

抑揚のない声と、菫色の瞳で少年は続ける。

「……すまない。もう俺は皆とは一緒にいけない」

突き放すような言葉に、少女は一瞬たじろいだようだった。
けれど、それでも彼女は食い下がる。

「それは……その力のせいですか？」

「ああ。俺は、結局約束を守れなかった」

「でもトウカさんも無事でした、今だってマコトさんはマコトさんのままだし……手のことは私には分らないけど……」

言葉を詰まらせながらも、自分自身の迷いを吹っ切れさせるように真剣な語調で彼女は続けた。

「とりあえず……とりあえず一度、合流しましょう。ここはいつ敵がでてくるか」

「……駄目なんだよ」

ぽつりと、震え混じりの音が零れる。
魔異は下げていた右腕を持ち上げる。掌にカゼヨミの紋章が描かれた拳を、ゆっくり開いた。
「怖いんだ。俺はもう、ユパの知っている俺じゃなくなってしまってる」

「マコトさん、それを決めるのはマコトさんじゃないです」

少年の掌を目の当たりにしても尚、少女は逃げ出さなかった。
異形の指先に、彼女の小さな手が重ねられる。

「戻れないって言うなら、私がついていっちゃいますよ」

それはきっと、彼女に出来る最大限の信頼の意思表示だったのだろう。
大丈夫だと、自分は味方だと、そう伝えるように、ユパックの両手は優しく菫の手に添えられていた。

「……違う。違うんだよ、ユパ」

少年の声に、僅かに感情が混じる。
恐怖と、困惑。そして、悲痛。
菫の色に、少しだけノイズが走った。

「カゼヨミは、俺の力じゃなかったんだ」

そう、ぽつりと零す。

「この菫色が、俺の本当の力だ。事柄を書き換えて、何もかもを改竄してしまう瞳。嘘を吐く為の、最低の力なんだ」

自ら理解した、己の持つ瞳の力の本性。
少年はそれをまるで懺悔のように、少女へと吐き出した。

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「俺はずっと、君に嘘を吐いていたんだよ」

突き放して欲しいと。見限って欲しいと。少年はそう思っていた。
けれど、返ってきた答えは、彼の予想していたものとはかけ離れていて。

「私には……難しくて分りません。
けど、私にとってのマコトさんは、一緒に旅をして、話して……」

少女の言葉を遮るように、言葉が紡がれる。

「ユパとの旅は俺も楽しかった。君と話せたことで取り戻せたものがあった。救えたものがあった」

これ以上の同情は要らないと言わんばかりに。

「……本当に、感謝しているんだ」

「でも、この眼が『こう』なってしまってから、駄目なんだよ」

「戦っていると、ぼーっとしてきて、気付いたら血だまりの中にいるんだ。そして、味方にまで、無意識にこの刃を向けてしまう」

「俺は、君を……皆を傷つけたくない。俺を信じてくれた人たちを、これ以上裏切りたくないんだよ」

搾り出すように紡がれた音。
ユパックを、メィレーを、ゲオルギウスを。
クローシェを、ディアリアドを、ソルトを。
そして、冬花を。
少年はただ、裏切りたくないと、そう願っていた。
傷つけるのではなく、護りたかったのだと。

「諦めないで下さいよ……！　乗りかかった舟だからって、投げ出さないって言ったじゃないですか」

「……戻りましょう、一度。本当にどうしようもないのかなんて、まだ分らないですよ」

少女の語調が強まる。強い感情が、言葉に叩き付けられる。
だからこそ、少年はより強く、突き放すように。

「……もうずっと付き合ってきた呪いなんだぜ。分かるんだよ。もう戻れないって」

「今はまだ、こうして話していられるけど……きっと、じきに俺はこの辺りで暴れている野良エンブリオと変わらない存在になってしまう」

「だから、そうなる前に、俺は……」

言いかけて、少年にはユパックが引き攣った表情で息を呑むのが見えた。
彼女はおそるおそる少年へ聞き返す。

「どうする……つもりなんですか？」

「……誰かを傷つける前に、この命を絶とうと思ってる」

彼女は返ってきた言葉に愕然としていた。
ユパックにとっては、それこそが『裏切られた』と思える言葉だったのかもしれない。

「なん……で」

「まだ本当にそうなるかなんて分らないじゃないですか！　今だってこんな、普通に話して……」

最早どうしていいか分からず、ただ強くまくしてる彼女に対して、少年はただ悲しそうな表情で謝罪の言葉を口にする。

「——ユパ」

「ごめん……本当に、ごめん」

振るわれた右腕が、近くの巨木を薙ぎ倒す。
ずずん、と音を立てて、少年の身体ほどの太さのあった木が地面に転がる。

「いつまた暴れ出すかも分からない。……正直、今だって抑えているので精一杯なんだ」

あの時と同じように、と。
少女もまた、彼の暴走は一度目にしたことがある。
魔異自身にさえ制御出来ない力の暴走が、拒絶するための嘘などではないということは明白だった。

「……カゼヨミは、俺の希望だった。俺の夢だった」

都合良く創り上げられた、偽りの力。

「勇気も力も無い、ただの子供だった俺が、ヒーローになれた力」

対価も暴走も無い、正義を行使する為の力。

「でも、そんなものは都合のいい嘘でしかなくて」

それは全て、自分自身で都合の良いように吐いていた嘘でしかなかった。

「冬花さえも恐れる、邪悪な力。命を奪うことしか考えられなくなる、魔性の力」

気付くきっかけはあったのかもしれない。
自らの内に芽吹く殺意を感知することは出来たのかもしれない。
けれどもう、遅い。遅いのだ。

「お願いだよ、ユパ。……まだ俺のことを仲間だと思ってくれているのなら、俺を友達だと思ってくれているのなら……」

一呼吸おいて、少年は決定的な一言を告げてしまう。

「俺を、死なせてくれ」

一瞬の間。静寂が訪れる。
けれど、少女が返した言葉は、少年の想像していたそれとは違っていた。

「暴走して、嫌な思いをして、辛いと思います。でも、まだ……まだ時間は残ってるんでしょ？　全部を諦めるには、まだ早いですよ……」

泣きそうな声で、けれども力強く、ユパック・コレは言った。

「私のわがままです。けど、最後でもいいですから、聞いてもらえませんか」

「時間がなくてもう無理で、抑えきれなくなった時は……私がなんとかしますから」

「だから、私は……ここでマコトさんを見捨てて、後悔して生きたくはないんです」

「お願いです。一度だけ、最後に頼って貰えませんか。ゲオルグさんでも、メィレーさんでも、仲間を当てにしてみてくれませんか」

「それでも間に合わなかったり、方法が無かったら……そのときは、私がマコトさんを止めますから、だから」

少女の瞳は、揺らがず少年を捉えている。

「……どうしてだ、ユパ」

「どうして君は、そこまでしてくれるんだ」

魔異の問いに対し、少女は目を逸らさずに答えた。

「マコトさんは私にとって初めての、大切な仲間です」

「俺は、君の……」

その先の言葉を言えず、ごくりと唾を飲み込む。

「……俺は身も、心も、化け物になったのに」

「ユパを、裏切ったのに」

だから、許さなくていい。
だから、自分は一人でいい。
柊魔異はそう思っていた。
それなのに。

「……マコトさん、ちょっと、ちょっとだけ屈んで下さい」

唐突な言葉の意味も分からず、言われるままに屈んだところで、慈しむような柔らかい抱擁が少年を包む。
少女の小さな手は、魔異の頭に乗せられていた。

「つらい時は、誰かに頼っていいんですよ」

魔異には彼女の表情は見えなかった。
少女に頭を撫ぜられたまま、彼はただ、その感覚に身を任せていた。



「……俺は」

何か言おうとするものの、胸が詰まって、そのまま。


——・・・



それから暫くして、少年はふと辺りを覆いつつある殺気に気付く。
自分の奥底にある同種のもの。凶暴化した野良エンブリオたちの存在に。

「下がってろ、ユパ。こいつらは俺が倒す」

「いえ、一緒に戦います」

「……分かった。仲間として——力を貸してくれ、ユパ」

からん。

震える手から滑り落ちたナイフが、地面に当たって乾いた音を鳴らす。
ああ、私は——ミモザ＝ブルーメンタールは、柊魔異を殺せない。
全ての名前を取り払った私自身は、彼を殺すことを望んでなんかいない。

足に力が入らなくなって、私は膝から崩折れてしまう。
ぽつり、ぽつり、涙が地面に滲みていくのに合わせるように言葉を零す。

守る為に、諦める。失わない為に、捨てる。
『道具』として生きていけば、私は誰かに使ってもらえるから。
少なくとも、私のせいで誰かを失う事にはならないだろうから。

——でも、彼の言う通り。
私が、私の望みたい事を望んでもいいというのなら。

自分が悪戦苦闘したカラクリを使いこなす少年を見て、唸る。
ちょっとだけ悔しいようだ。

そう言って少年に肩を貸す。

片や疲弊しており、片やエンブリオを持たず。
戦う術は在るが、それでも厳しいものになるだろう。
あまり無茶なルートは通れない。

磔にされたり縛られたりするくせに普通に会話に混ざるジャンク二名でった。

ぐるぐると。その手に持った大鎌を回して、肩に担ぎ上げる。