何かありましたかと声をかけると、彼は一度こちらを見やって、そうしてからなんでもないような笑みを浮かべた。
「何かおかしいとこあるか？」
『紫、が……』
　これを言えばまた怒られるだろうかと思っても、懸念があれば結局口に出してしまう。少しなりとも身構えておいて、しかし彼は胸元を押さえて、そのまま口を噤んでしまう。
　僅かな沈黙。そして苦笑。言葉の無いそれに、嘆息する。
『……あまり、頑張りすぎないでください』
　最近ではもうするすると、ほとんど無理もなく紡ぐ事の出来るようになった声は、それでもまだ硬質だ。乗せきれない感情も、それでも彼は察してくれたのか、柔く頭を撫でられる。——この熱でさえ感じ取る事が出来たのなら。
「無理はしてない。お前の方がだろ」
　言われてしまえば言葉に詰まる。流石に、解っていたのか。『エンブリオ』という身体を得て、同じエンブリオ達の会話から知識を得て、力を得れば、『それ』は恐らく可能になる。
『……するな、とは言わないんですね？』
「お前が反故にしてくれるんなら俺にとっても都合いいしな。……あんまり過大評価すんな、俺だって感情はあるんだから」
『……"私"は、』
「紛い物なら最初に捨ててる」
　言おうと思ったその先を越されて言葉を飲み込む。緩く頭を振る。手が離れて行くのを見上げれば、変わらない笑みの表情。
　——息を、つく。
『何かあったなら、言ってください。力に、なりますから』
「ああ」
　頬を軽く、撫ぜられる。その感触はあっても、自分にはその熱を感じ取る事が出来ない。幽体、結局実体を持たない姿では、それが『限界』なのだ。度重なる『渡り』に疲弊した肉体は、渡った先ではもう場を越えてあちこちに連れていく事は出来なかった。それが、歯痒い。
　彼は、すぐに前へと向き直る。それをどうして、いつものように、何の心配も無く、見ている事が出来ないのか。
　
　遠ざけている。そのように、思えてしまう。
　彼は、気付いていないのか。コートの左側、手で覆ったそこから、僅かに流れる黒がある。
　あるいは気付いているから、遠ざけているのか。
　右はいつものように、きっとどんな眼にも自然に映るほど『自然』に、左の代わりを果たしている。
　
　——漸く、
　——ようやく、剣を手放す事が出来たのに。
　
　
　
　
　
　
　
　
　
　


　
　
　
　
　
　
　『さいご』を詳細に、書き留める。綴じはしない、自分の中に預る。
　……次の場所へ。
　
　
　
　
　
　
　
　

世界を移動することの上手下手など考えたことも無くて。
言い添えられた言葉と恥ずかしげな彼女に何度か驚いたように瞬きを。

今エンブリオから力を借りているのなら、彼女自身が、力を借りないともう維持できないのだろうか。
元の姿はどうなるのだろうか。分からぬことばかりで。

紫から紡がれた言葉に、知らず息を呑み、繰り返す。
『不死』
どのような形であれ薬や呪術に関われば少なからず関わり、または聞くであろう。けれど。

座りなおし、少しの間を置いた後。真っ直ぐに彼女を見つめて口を開く。

一朝一夕の知識で作れるような代物ではない。
が、本来であればまず先にこれを答える事こそが未熟であると。
けれど言わなければ対等ではないという判断の上で先に己の技量を示す。

それでも彼女がこの様な形になってまでこの世界に渡ったことを思えば。
自分に出来うることならば応えたいと思うからこそ、そっと尋ねる。

こくん、と、落とされた礼に応えるように頷き。

こちらに来るのだろうかと、氷の子の様子へと視線を向け、それから彼へ。
からかうような含みを持たせたままの笑みに、けれどそれ以上機嫌を損ねることはなく、
──不思議と気を緩めたように、少女はふ、と不意に表情を和らげた。ほんの、少しだけ。

何処まで踏み込んで良いものか。
人との触れ合いが不慣れゆえに、はかりかねることへの不安に瞳を僅かに揺らして。
彼が視線を移せば、倣うように、傍へと来たその子へ。視線を。

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