ここ『メルンテーゼ』に来て、一揆に加担し始めてから早一月が経とうとしている。
王城前でラルフとルリアンナの試験を受けたのがついこの前に感じられる程に濃密な時間。
その中であった物事のひとつひとつを、私ははっきりと思い出すことができるはずだ。
この世界での最初の戦い。二人から貰ったネクターの花と、契約したエンブリオの『ルナ』。
——無一文で放り出された事への不満を口にする、彼の表情さえも。

　ヘイアン＝ディヴァータ。
私の『持ち主』である彼とろくに会話を交わさなくなってからもしばらく経つことに気付く。
一揆衆が息抜きにと開いた祭の傍ら、夜の花畑で拙いながらもヘイアンが編んだ花の冠。
それは私の心の中で未だ枯れてはいない。あの時に握った彼の手の温もりも添えられたままだ。

　なのに、私の心は彼を前にすると上手に動いてくれなくなってしまう。
暖かさを否定するように突き付けられた冷徹な瞳と言葉。『道具』の持ち主である彼の、私の『使い方』。
それら全てが重く冷たい鉄の鎖となって巻き付いたように、黙り込む事しかできなくて。

　いや、きっと私は黙ったままでいるのが正しいのだろう。
私は道具だ。彼に付き従い、彼の理想を成すためだけに存在していればいい。
ヘイアンが私に喋るなというのであれば、私はそれに従うべきなのだ。
日蔭に体を寄せ合う花は、互いに食い合わない限りは美しく咲けるのだから。

　当然、彼の言葉や態度に反するなんて事は、誰だって求めてはいない。
そう、求めてはいない。……求めていないはず。

「……」

　私は周囲に気取られないように溜息を吐くと、思考の海から意識を現実と引き戻した。
程近くには星空を詰め込んだような美しい川が流れ、空気は冷たく、灯かりは少ない。
前を行くのは、私の仲間であるバイクのナビと——そして、ヘイアンの背中もそこにある。

　夜闇と同じ色をしたコート。私と揃いのそれを眺めていると吸いこまれそうな気分になる。
今なら声は届く。肩に手を掛ける事もできる。攻撃魔術を放つ事も、ナイフを突き刺す事さえ恐らくは。
それができない理由は私にも分かっていた。私の心が、弱いからだ。

　冷たい風が吹き、黒いコートがばさりと揺れた事で、ぼんやりとした私の心は地に着いた。
左手で乱れてしまった前髪を整えていると、前を行くヘイアンが私の方へと振り返った。

「夜風が冷えるな。大丈夫か、ミモザ」

　そう、彼は私の体調を気遣うような言葉を投げかける。
分かっている。それは私を友人や仲間として心配しているのではないということ。
『道具』の調子が狂えば、彼自身にも悪い結果をもたらしかねない。
それは彼への、ひいては私たち全員への利益を考えた言葉に他ならないのだ。

　唇が軽く震えるのを感じた。
『その言葉の方が私にとっては冷たい』と、彼に言ってしまえばどうなるのだろう。
道具として使い物にならなくなった私は、ここで捨てられてしまうのだろうか。
——そう考えた時に、ぞくりと。背筋が凍えるような感覚を覚え。そうして私は。

「……うん。問題無いよ」

　絞り出すように彼にそうとだけ告げる。彼は暫し私の顔を眺めると、再び前を向いた。
今、私を貫いた感覚——喪失への恐怖に、私はきっと耐える事は出来ない。
再び吹き始めた風が、手を、足を、頬を冷やしていくのを感じながら、私は一人震えていた。

　風。
私が風使いの、『カゼヨミ』の彼くらいに強かったら、こんなに寒くはなかったのだろうか。
ふと、そんな事を思う。

「……」

　柊魔異。このメルンテーゼで出会った学生で、私に手を差し伸べてくれた人。
私の過去を詰め込んだ『呪い』を前にしても、一歩も退こうとしない彼は。
きっと、今の私が欲しいと望んでいる『強さ』を、まるごと持っているのではないだろうか。

　彼の言うように、私が『道具』でないのであれば。
私が『ミモザ＝ブルーメンタール』として、一人の人間として生きる事を望んで良いのなら。
もしこの風が、彼の手助けであるのなら。

「ねえ、ヘイアン」

　声に出す。
かすかな音だったそれが彼にまで届いたかどうか、私には分からなかった。