《Epilogue》


　すぐに帰ってくるからな、とご主人様は言った。

　だから私は、ご主人様の帰りを待った。
　目の前には壁みたいな大きな建物。どこを見回しても見慣れない景色の、落ち着かない窓辺に、私はいる。
　別に、慣れない場所だから落ち着かないわけではない。ご主人様はあちこちへ出かけるからそんなのは慣れっこだ。
　じゃあなぜ落ち着かないのかと言えば、それは私の隣にいる奴のせいだった。ただでさえ正面にある大きな建物のせいで日当たりが悪いのに、私の隣には観葉植物が図々しく高々と居座っていて、そいつはわざとしか思えないほど私を覆うように影をつくっているのだ。このままではご主人様が帰ってきたとき、しおれた姿になってしまうのではないかと思うと気が気でない。元気のない私を見て、ご主人様が落ち込んでしまうなんて嫌だ。想像しただけでも胸が張り裂けそうだ。
　どうしようどうしようどうしようどうしよう。
　そして、私は思った。
　ああ——ご主人様のように望むものを掴むための手が、私にもあればいいのに、と。

　翌日、不思議なことが起きた。
　あれほど立ちはだかっていたはずの観葉植物が、いつの間にか嘘のよう消え失せていたのだ。
　一瞬、そんなものははじめからなかったのではないかと思うほど突然で、だけど観葉植物が置かれていた場所には大小様々な土くれが転がっていて、そこには確かに何かが「あった」はずだった。
　なら、ご主人様が帰ってきた——わけではない。私はヒトと違って眠る必要がないから、ご主人様が帰ってきたら気づかないはずがないのだ。だからこの部屋には誰も入ってきていない。断言してもいい。
　本当に不思議なことだった。
　私は、考えて考えて考えて、そして、
　——まあいいや。
　よく考えたら、日当たりがよくなって枯れる心配はなくなったのだから、悩むようなことじゃない。むしろ嬉しいことだった。
　私は晴れ晴れとした気分で、日の光を浴びる。
　——ご主人様、早く帰ってこないかなあ。
　次に意識を向けたときには、土くれすらなくなっていた。
　やっぱり、最初からなにもなかったのかもしれない。

　これからはご主人様のことを「ピアさん」と名前で呼ぶことにした。
　なぜって、そうすればご主人——ピアさんのことを、忘れないから。
　嘘。ホントはただ呼びたいだけ。
　名前で呼べば、今は遠くにいるピアさんも、近くに感じられるから。
　ピアさんがいないときにこんなことを決めちゃうのはよくないって思ったけれど、
　——でも、早く帰ってこないピアさんが悪いんですよ。
　名前を呼んで、日差しを浴びて、帰りを待つ。
　幸せって、きっとこういうことなんだ。


　　　＊


　入り口の扉が開いた。
　私は飛び跳ねるように起きて——比喩表現であって、もちろん私に飛び跳ねる身体はない——全神経を入り口へと向けた。そして、歓喜はすぐに落胆へと変わった。
　乱暴な足音だけでわかってしまった。ピアさんじゃない。

　怒気を含んだ声。入ってきたのは、女の子と、全身黒尽めの男が数人。
　黒服のほうはみんな同じ顔に見え、慌ただしく部屋中を歩き回っていた。
　そういえばピアさんも、ここにきたとき似たようなことをやっていたっけ。
　女の子のほうは、ピアさんと同じぐらいの背丈だった。でも目も髪も色が違うし、肌に傷ひとつないし、それに何だかキラキラしていて、やっぱりピアさんとは全然違うと思った。
　一人だけ動かずに、女の子に付き従っていた黒服が口を開いた。

　淡々とした口調でしゃべる黒服の言葉を、キラキラした人は大きなため息で遮った。

　大声で怒鳴って、キラキラした人は手に持っていたカバンをベッドの上に叩きつけた。
　どうしてこの人は怒っているんだろう。
　ピアさんが帰ってくる場所で、そんなことをしないで欲しい。

　黒服が、私にもわかるぐらい驚いていた。
　……なんの話だろう？
　ピアさんじゃない人が話すことは、わからないことだらけだ。

　すると、キラキラした人が笑った。
　でもそれは、私が見たこともない笑顔だった。笑っていることを否定するような、笑い方。

　そう言うと、黒服の人はそれきり押し黙ってしまった。
　キラキラした人が、また大きなため息をついた。癖なんだろうか、ため息が。
　そして、ピアさんとは違う長い髪を揺らしながらベッドから立ち上がって、私のそばまでやってくる。

　呟き、そして窓から見える風景に視線を外して、
　——あ、目が合った。
　私に瞳なんてないけれど、なぜだかそう思った。

　キラキラした人が、私の葉を優しく撫でる。くすぐったい。

　そして、キラキラした人はまた笑った。
　さっきとは違うもの。
　それは、私のよく知る、優しい笑顔。

　私は「この子」ではなくポポロだ。そう言いたかった。
　——ピアさんは、まだ帰ってこない。


　　　＊


　キラキラした人は、エルバさん——という名前らしい。
　あれから、エルバさんは私がいる部屋に住んでいる。ときおり黒服に呼ばれたり、何か大きな荷物を持って出かけることはあったが、一日のほとんどは私と一緒に部屋にいて、とても退屈そうにしている。

　エルバさんが私に語りかけてくる内容は、とにかく愚痴が多かった。そりゃあピアさんだってそういうことを言うこともあったが、エルバさんはちょっと言い過ぎだと思う。こっちの身にもなって欲しい。

　そう言って、エルバさんは笑った。
　こうして彼女の話を聞いているうちに、わかったことがある。
　ひとつは、愚痴ばかりだけれど、エルバさんはそんなに悪い人じゃないということ。だって彼女は、悪態をついたあとに、必ずと言っていいほど否定するような言葉を使うから。きっと彼女は、悪口を言う自分のことが嫌いなんだろう。
　そして、もうひとつ。
　私は、彼女がときおり見せる優しい顔が、割と好きだということだ。
　ちぇろをひく、というのが一体なんなのかはわからないけれど、きっとそれは、とても素敵なことなんだろう。

　しばらく黙っていたエルバさんが、また私に語りかける。
　その声色は、先ほどよりもずっと重たいものだった。

　私にはわからない、難しい話だな、と思った。
　でも、「殺す」というのは知っていた。だってそれは、ピアさんのお仕事のことだから。

　最初はこわごわとした話し方だったのに、エルバさんの声はだんだんと早く、大きくなっていた。

　エルバさんは、もはや私に語っていなかった。うつむいて、地面をじっと見ながら、何かを強いるようにしゃべっていた。
　私にはわからないことだけど、きっと彼女には、すごく大事なことなんだろう。

　それにしても、ピアさんはいつになったら帰ってくるんだろう。
　これだけ待たされるのは、もしかしたらはじめてかもしれない。

　ピアさん、早く帰ってこないかなあ。


　　　＊

　エルバさんが何か言っている。
　けど、私にはもう、それが上手く聞き取れなくなっていた。
　もう駄目だ。
　私は限界を迎えようとしていた。ずっと抑えていた私の中にあるモノが、溢れ出そうとしている。
　ずっとずっと我慢していた。ピアさんを悲しませる観葉植物だって、私の「手」で******、*****。なのに、
　だって、おかしいじゃないか。ピアさんは確かに「すぐに帰ってくる」って言った。なのにピアさんは全然帰ってこない。今までこんなことは一度もなかった。すぐに帰ってくるって言ったのに。言ったのに。言ったのに。

　——私が、居場所じゃないから？

　ピアさんにとって、私は帰ってくる場所じゃないから？　だからピアさんは、私を置いてどこかへ行ってしまった？
　そんなのは駄目だ。そんなのは嫌だ。
　ピアさんはいつ帰ってくるんだろう。ピアさんはどうすれば、帰ってくるんだろう。

　——私が、居場所になれば、

　瞬間、
　私の世界は、光に包まれた。
　曖昧だった私が形を作る。存在しないはず心の、存在しないはずの想いが、確かに私の中にあった。
　花はただ、咲くことしかできない。
　だけど、それじゃあ駄目なんだ。それではピアさんは帰ってこない。ピアさんのそばにはいられない。
　花ではない。願いを叶えるのは、いつだって神様だ。
　だから私は——
　光が収束していく。不定形が、答えを出そうとしている。
　だけどそこには、余りがあった。巻き込んでしまった人がいた。
　私はそれに気づいて、いけないと思い、すぐに手放そうとして——そして、掴まった。

『あたしも連れて行ってよ』

　それは駄目だ、と思った。きっと貴方は耐えられない、きっと貴方は悲しい思いをする。後悔も諦観も絶望もする。

『別にいいわよ。もともと捨てようと思ってた人生なんだし。それに——』

　私の想いは溢れていたはずだった。他のものは何もいらないはずだった。
　だけど、なぜだろう——。

『あなたみたいな綺麗な子と、一緒に生きてみたいわ』

　その言葉が、恥ずかしくなるぐらいに、嬉しかったのだ。
　光が閉じる。
　——次に会ったときは、笑顔で再会できますように。
　神様に、そう願った。



　そして、私は目を覚ました。