彼は微睡みの意識の中にあった。
ふわふわと意識だけが浮かび上がり、どこへかと沈み込んでいく。
先ほどまで激しく躍動していた身体から抜け出た様な感覚だ。

そう、重く重く身を弾けさせる激痛など無く、ただ、沈むように眠りび落ちれば良いのだ。
そしたらまた


———また、どうするのだろう。


どうする。己は負けた。それなら傷を癒す為に、今は休息を得るのが先決だ。この場で眠れば良い。
そうだ。これはその為に必要な事だと分かる。
このまま眠ればいい。何も思うことなく、揺蕩う意識すらも消し去ってしまえば良い。
水の撥ねる音と共に、優しく、迎え入れる声に引きずられる様に身体の力が抜けていった。
だが、それに比例して彼の意識は覚めていく。





可笑しい。

そう思った。何を根拠にそう思うか、何故己がそう思ったのかも分からない。だが、徐々に冷め始めた彼の脳内で本能が騒ぐ。

この汚濁の様な湿った声を撒き散らすモノは何だと。





彼は弾けるように目を覚ました。
まだ薄ぼんやりと霞掛かった思考を整理する様に、素早く周囲を見回す。
空の太陽は天から傾き、既に茜色の色合いを醸し出している。
彼の周囲を取り囲む様にある廃墟は、その光を浴びて、黒く伸びた影を幾重に作り出していた。

「ここは……」

先程自分が敗れた場所ではない。こんな、草も、風も、陽も、エンブリオ達の気配が感じらぬ場所は知らない。
それ以前に、自分はどうしてここに居る。他に、自分の他に誰かいないかと疲労の溜まった身体を起き上がらせ様として、四肢に力を込めた。

「ガァ！？」

しかしそれも叶わず、顔から地面にぶつかってしまう。
そして彼はそれを見る。目の前に投げ出された己の両脚を。
キラーウルフの獲物を狩る強靭な前脚。その両脚は無残に全ての毛が抜け落ち、筋肉の筋が浮き出た赤ピンクの肌が見えていた。
その肌の上に、蛇の様に這いずりまわるものがある。それは大小様々な大きさで、時折、それの肌からブチと音がした。
その部分からどろりと液体が溢れだしてくる。それはまるで土壌を淀ませたような、酷く腐った臭いがした。それが彼の肌を覆っていく。
彼の両脚に触れたそこから、その土泥は肉を食い破り、彼の脚を抉りだす。

彼は悲鳴を挙げた。
目の前で広げられる不可解な出来事に。
彼の脚がもう既に失われつつある事に。

肉に潜んだソレが再び薄い肌を食い破って彼の眼前へと姿を現す。
もはや全てが腐臭に覆われた彼の脚を必死で動かそうとするが、彼の思いとは裏腹に彼の両脚はピクリとも動かなかった。

何だこれは何なんだこれはっ！
知らない。こんなエンブリオ見た事も無い！！

ぶつり、と彼の前脚を突き破り無数のそれが外へと出てくる。のたうつそれが、彼の脚から次々と生えてきた。
不思議と痛みと肉を食い破られる感触が無い。
それが一層理解出来ず、理解する事が恐ろしかった。

最早無我夢中で脚を動かす。しかし、彼の焦りとは裏腹に泥は順調に彼の両前脚を飲み込んでいった。


彼が一時の猶予を得たのは幸運だったのか。正面から声が聞こえた。
彼は暗がりに染まる視界の中、すぐさまそちらの方へと視線を向けた。
正面、中心の居宅だったのか、周囲の壊れた廃墟とは違い、ほぼかつての姿を保っている。しかし、且つて人々を迎え入れた扉はすでになく、何かに衝突されたかの様にぽっかり大きな穴が開いていた。
その中に動く者がいた。
確か同じ獲物を狙った際、陽動として動いていたゴブリンだ。嗅覚はまだ失われてない事を感謝していた。
それはバタバタと壊れた人形の様に、無我夢中で手足を空中で動かしていた。
そのゴブリンが宙に浮いてる。こちらに背を向け、空振る手足を懸命に動かしながら黒の空間に浮かんでいる。
伽藍堂の穴の中で一つだけ動いている姿は、彼の目には不思議な出来事の様に映っていた。

そして、ゴブリンの頭が無くなった。

悲鳴も無く。
悲鳴はあった。ただそれすらも掻き消された。

動きは止まり。
動きは止まらない。無くなった部分から次々と零れだすもの。

伽藍堂が揺れる。
満たせ満たせと血に染まったそれを、振り子みたいに揺らしながら、啄みながら喰っていく。

彼の耳はそれを聞き取った。刮ぎとり、一気に飲み込む音を。
そして一際大きな音が響くと。

一瞬の閑散を許さないかのように、無数の目が見開かれた。

＞カーフェイ君

＞ガル君

＞ティシア君

どっちかっていうと、天然方面でした。

>ガルさん
怒気を孕んだ声。瞳に浮かび上がるのは紛れもないこちらへと受かった悪意と苛立ちと落胆、そして、刺すようなプレッシャー。
カチリとカーフェイネスの中にある、それが外された。

顔面蒼白。ノンブレス。身体は硬直し、酷い汗だ。そして土下座をする様な態勢をとり、そのまま身体を小さく震わせ、尻尾は彼の身体にぴとりと触れさせていた。額を地面へと打ち付けながら尚、滔々と零れる謝罪の言葉は壊れた機械の様に滑稽だ。
まぁ、要するに。壊れた。

*何かを発見して嬉しそうだ*