重く鈍い音が、ふたつ——かつては近衛の兵士達の生活の場であったと思われる敷地、その建物の一角で響いた。

　不揃いなその音。
　ひとつは、何かが石畳の地面に崩れ、横たわった時の。
　その後のいまひとつは、その何かが強引に引きずり起こされ、大きな容物の中へと担ぎ込まれた際の。


　「うふふ——力仕事で頼りになるエンブリオがいてくれて、とぉっても助かりますわぁ。
　　わたくしの『人形』たちに任せてもいいのですけれど、なるべくなら『温存』したいものですから」


　その場に立つ人影のうち、黒いドレス姿のひとつ……“人形使い”、マリア・ジョアンヌが弾んだ声を投げかける。
　笑顔の奥、目深に被った漆黒のヴェールに覆われて判然とせぬ視線の先に立つのは——金属質の肉体と円筒形の頭部を備えた、銀色のエンブリオ。傍らには、何かを入れて蓋を閉じたと思しき大鞄が横たえられている。
　それらから、やや距離を保つ形で——エーメという名の植物型エンブリオが、不安そうな表情で一連の動きを見つめていた。


　「…つかぬことを、聞くけれど。
　　…お前が護衛している、連れの娘たちとは、離れていていいの？」

　「あら、うふふ。
　　そうですわねぇ、近場の安全は確保してからこちらに移動したつもりですけれど……
　　あまり長く離れ続けているのもよくはありませんものね。そろそろ戻りましょうかしら」


　さして中身の無いエーメの問いに、当たり障りのない回答が返される。
　本来なら、エーメは“人形使い”にこう問いたかった——わざわざ彼女らから離れて、『あんなもの』を大鞄に入れて、その後に何をするつもりなのか、と。
　だが、それを聞いたら最後、自分もまた『あんなもの』の一部に取り込まれてしまうような気がして——あえてそれでも尋ねる勇気は、エーメには無かった。

　銀色の金属型エンブリオ——Ｐ・カーンは、ただでさえ感情の読み取れない無機質なその外見を特に変えることもなく、『荷物』を運び終えた後は、いつものように無言のまま腕組みポーズで立ち尽くしている。
　その二の腕あたりを、労うように“人形使い”が軽くぽんぽんと叩きながら横を通り抜け、横倒しになっていた大鞄へと手を伸ばした——その瞬間のこと。


　　がががぎぎごぎっ！！


　唐突な異音に驚いて飛び上がったエーメが、一拍を置いてその音源……大鞄の位置を見やると。
　大鞄の蓋、その留め金が２つ３つ強引に弾け飛び、こじ開けられた隙間、その内側から——錆び付きかけた甲冑の腕と、ゆらめく影のように不定形のもやを纏った黒い腕。その２本の手が、鞄を持ち上げようとした“人形使い”の腕と首に絡み付き、握り締め、引きずり込もうと——まるで大蛇が狙いを定めて飛びかかり巻き付いたがごとく、力を加えているのだった。


　「——…っ！？」


　居合わせた二人のエンブリオは、しかし瞬時の出来事に反応できず、半ばあっけにとられてその光景を呆然と見やるのみ。
　首から上半身にかけてを絡め取られ、鞄を持ち上げようとした前傾姿勢のまま、徐々に下側へと引っ張られていく“人形使い”の表情は窺い知れぬ。そのまま、声もなくその身体は——


　　ぼぎん


　始まった時同様に、あっさりと——力の均衡は、一瞬にして破られた。
　力の行き所を失くして僅かに彷徨ったふたつの“腕”は、身を起こした“人形使い”の姿を認めるや否や、再び猛烈な勢いでその身体に蛇のごとく『手』を伸ばし——びくん、と大きく痙攣して、そのまま固まったように動きを止めた。
　入れ替わりに、地面へと立て続けに二つの影が落ちた。
　長さ１ｍほどの、やや湾曲した棒状の物体がごろりと石畳に転がる。そして、やや遅れてふわりと落ちたのは、“人形使い”の常に被っていた鍔広の帽子。


　「…あ……ああ、あ……」


　思わず“人形使い”の方を見たエーメが、今度こそ、世界の終わりでも目にしたかのように絶望的な表情で、がたがたと震え出す。
　組んでいた腕を所在無げに下ろしたまま、Ｐ・カーンもまたその場から動けずに、“人形使い”とそこに絡まる“腕”の様子を見守ることしかできずにいた。

　エンブリオ達に背中を向けた形のまま、ゆっくりと背を起こし顔を上げる“人形使い”。
　その上半身には、黒い障気のような“腕”が巻き付いているものの、何ら意に介さぬ様子で——ふと眼前に左手をやって、帽子とヴェールの外れているのに気付いたか、足元に飛び落ちていたそれをゆっくりと拾い上げて、何事もなかったように被り直した。
　“人形使い”はそのまま、足元のもう一方に目をやる。
　地面に横倒しになったままの大鞄、そこから「生えた」金属と暗闇の両の腕。その根元、留め金のいくつか吹き飛んだ蓋の隙間から、突き出ているのは——どす黒い“もや”に包まれた、錆びかけの兜。


　「ナイトスピリット——わざわざ“ネクター”を使って『契約』しましたのに、ずいぶん無体をなさいますのね？
　　そういう“卑劣な”エンブリオもこの世界にいると、初めて知りましたのよ」

　『ヒ、ヒヒ……ぬかしやがるぜぇ、涼しいツラぁしてよぉ……
　　なに平気なツラして、立ってやがんだぁ……テメェ……！』


　錆びかけた兜から——いや、それにまとわり付いた黒い“もや”から発せられる、邪悪な甲高い凶声。
　だが、その声にはいささかの焦りと困惑が隠しようもなく滲んでいた。


　『何ンなんだよテメェはよぉ……苦しがりもしねぇでよぉ……
　　いや、それどころじゃねぇ——自分で腕ェへし折って、逃げやがってよぉォ……！？』


　今も、“人形使い”の足元に落ちている、棒状の物体。
　否——「それ」は、肩口のあたりから完全に砕け折れた、“人形使い”自身の右腕。
　中身を失って丈の余った服の袖が、彼女の右腕の二の腕から先、所在無げにぶらぶらと垂れている。

　しかも、その砕けた断面からは、血の一滴も、骨や肉の零れる様子もなく……肉色の中身だけが詰まった人形のパーツであるかのように、僅かに塵と化した破片を散らしたのみで、無機質にそこに転がっているのみ。


　『甘ちゃんどもがホイホイ釣れたから、一匹ずつ仲間ぁ増やす依代に使ってやろうかと思ったのになぁ……
　　何ンなんだテメェはぁ……気色悪りぃ女がよぉ……——げヴ！？』


　必然、“人形使い”に残された左腕。それが無造作に、大鞄から顔を出した錆びかけ兜へとあてがわれる。
　先程のように、捕縛され強制された前傾姿勢ではない、自らの意志で身を屈め、片腕で兜の顔の部分に、広げた掌を押し付けて。
　ただそれだけで、まるで万力でもかけたように、忙しなくケタケタと震えていた兜がその動きを止める。——正確には、動こうとしつつも、ぴくりとも動けないのだ。ただ、押し付けられただけのその左手によって。


　「わたくし、エンブリオの『契約』の作法はまだよく知りませんけれど——
　　貴方が、とっても失礼な輩だというのは、何となぁくわかりましたわ。
　　それに——仮にも婦女子を相手に、力ずくで手篭めにしようというその不心得。反吐が出ますの」

　『げ、げァ……が、ガガ……！？』


　“人形使い”の身体が、さらに大鞄に近付く。
　身体ごと顔を寄せ、兜を左手で抱き寄せるように密着したのだ。
　そのまま、囁くように語りかけつつ、その唇が兜へと一気に寄せられ……


　「——いいですわ。
　　そちらが“その気”なら、わたくしも……わたくしの“流儀”を、使わせてもらいますのよ」

　『ぎ、ギがガッ、……や、やめっ——』




　　がりッ

　　ぼりッ　ボリボリッ　ごしゅっ

　　ごぎん　ごぐん　がりがりッ

　　………………




　耳を荒らし回るような禍々しい異音が収まった時には、大鞄から伸びていた黒い“もや”の腕は、跡形もなく消え失せていた。
　大鞄の傍らから顔を離し、身を起こした“人形使い”の視線の先。蓋の隙間から姿を見せていた兜もまた、その痕跡すらなく丸々消え去っており——ただ一本、錆びかけたどす黒い甲冑の腕だけが、力を失ってだらりと隙間から垂れ下がっているのみだった。

　顔の脇にかかった髪をかき上げようとして、右腕の無いのを改めて思い出したかのごとく……煩わしそうに右腕を下ろした“人形使い”は、ひとつ憤然と息をつくと、再び左手を無造作に伸ばして——その錆びた甲冑の腕、その根元を、軽く、握り込んだ。


　　ぎしッ

　　　ッッバキッッッ


　わずかの一瞬——
　やや力を込めたか、と思った次の瞬間には、大鞄の蓋の隙間から伸びていた甲冑の腕は、金属とは思えないほどあっさりと砕け、その根元からもぎ取られていた。
　次いで、その歪な腕の一部……手首から先の部分を、左手だけで事も無げに折り取ると、まるで長手袋のようにも見えるその手首を、垂れ下がる自らの右腕の袖の中に収める。

　ややあって、“人形使い”が右腕を軽く振ると——そこには、まるで生身と変わらぬ、元々着けていた白手袋の有無の差がなければそれとすら気付かぬほど元のままな右手が、まるで手品のように復活していた。
　余った下腕部分を、汚物でも放るようにその場に捨て、代わりに折れ砕けた元の右腕——こちらは白手袋を付けたままの——を拾い上げると、大鞄の隙間からその中へ、繊細さの欠片もない荒っぽさで突っ込んだ。
　そして今度こそ、大鞄の取っ手を両手で握り、ごとん、と縦向きに立てて——ようやく、一仕事したとでも言いたげにふー、と息をついて、自身の胸のやや下あたりまでの高さのそれに、軽く寄りかかってみせた。


　「やれやれ——エンブリオは『契約』で協力し合う関係だとずっと聞いてましたのに。すっかり騙されましたわ！
　　わたくし自身がこの先“骨を折る”のも、下策ゆえ避けたかったですのにねぇ……
　　ままならないものですこと」


　大袈裟にそう嘆いてみせ、“人形使い”はその場のエンブリオ二人を見やった。


　「——あら、あら？　くふふふ……
　　ほらほら二人とも、ぼーっとしている暇はなくてよ？　もうそろそろ、皆さんと合流しなくてはいけませんわ。
　　確か、トオル……董琉も、この油断のならないエンブリオと『契約』していたはずですの。
　　警告してさしあげなくては……うふふ！」


　そう言うと、返事も待たずに“人形使い”はいそいそと——恐らくは皆の待つ合流地点へ向けて——大鞄を引いて、歩き出した。
　金属のエンブリオ、Ｐ・カーンも……気を取り直したのか、無言のままその後を追って、からんころんと歩き出す。

　さらにその後を、しかし覚束ない足取りで追うアルラウネのエンブリオ、エーメ。
　その口元から、微かに、うわ言のように、声にならない言葉が洩れるのだった……




　「私も——あいつに、あのとき、敵対してたら——ううん、これからも、きっと。
　　今のナイトスピリット……その前、さっきの、ヒュドラ……彼らみたいに——」



　　　——タベラレチャウ　ノ　カナ——