———ハジマリがあるように、序章があるように。
　本を持ち出せば終末までの噺はあれど、我が世界に終末はない。
　終わりのないハジマリの物語は、きっとずっと普遍のままであろう。


◇



　仕事終えて帰路についた——その途中で、ふいに気配を感じて歩みを止める。
　帽子を摘まみ、外して懐に仕舞う。首をふるると振り、髪を振る。

「………」

　森の中を経由して踏みこんだ山岳地帯の中は、すっかり墨でも被ったかのように闇に覆われていた。

「……早急に済ませないと」

　辺りの静けさに耳を澄ませて、首をしきりと巡らせながらごちた。森暮らしに慣れた身であっても夜の森は弱肉強食の宝庫。恐ろしい。深き豊かな場ならば尚更、そこに息づく脅威とも出遭う確率が高くなり得るからだ。異が流れ着く魍魎の地。自然と速めようとする足を留め、慎重に足音を潜めて下草を踏みしめていく。
　息をも殺して耳を傾けた風の音の中に、微かに小川のせせらぎが聞こえる。
　つま先を回し、進路をそちらに取って進んだ。前日の雨で湿った地面を尚も踏みこみ、時おり含んだ水分を、じゅ、と音たてて滲ませる。斜面を下っていった先に、今宵のか細い月明かりを受ける、光の粒を散らす川を見つけた。近付きがてら再び周囲を見渡して、生き物の気配の有無を確認する。
　岸辺に佇む影を見た時、歩調を緩めた。水場はその場に生きるものにとって必須の場所だ。必然、やはり遭遇の確率は高まる。目を眇めては凝らし、なるべくその場で得られる先客についての情報を探らんとした。

「あ」

　よくよく目を凝らしてみると、それは四本足の影。しなやかな肢を踏ん張って立ち、耳をもピンと立ててこちらを伺っている。薄い光源の下で微かに浮かび上がる茶色い毛並み、つぶらな瞳が瞬いて、

「小鹿、ですか」

　一頭の鹿であることが分かったと同時に、先客は身を翻していた。軽やかに跳ねて向こう側の山の斜面を登り、あっという間に闇の中に消え失せてしまう。残されたこちらは瞠った目を瞬かせ、見送っていた。

「……悪い事をしたかな」

　頬を掻きがてらぼやき、ひとまず暫しをおいた後に歩みを再開した。岩が転がる岸まで下りてくるなり、膝をつき、バスケットの中をごそごそとまさぐる。中から取り出す空き瓶の蓋を開けて、川の水に浸す。満ちゆくそれを見守りつつ、本日三度目の目配りを利かせた。


———ぞわり、と———


　————空気が変わったことに気がついたのは、唐突だった。目ではない、鼻ではない、耳でも。　肌が。総身が感じ取ったのだ。その存在の訪れを。

「っ……ぅ」

　総毛立たんとする体の欲に逆らえず、身震いをした。思わず瓶から手も放してしまって、川底の石にぶつけてちゃぽんと高く悲鳴をあげさせる。体が早くも場からの離脱を図らんと、背を軽く反らし、畳んだ足の靴底を擦らせた。
　目はある一点に釘付けであった。森の木々が密集する場で、いやに開けている。拓けていると思った、今ようやく気付く事ができた、白い一筋の月光が差し込んでいる場所。煌々と月光の帯が降る。
　さしり、と草を踏んだ沓は白かった。月光を浴びて冴え冴えと輝いていた。

「……話には聞いていたが、よもや誠に出合う機会ともなり得ようとはな……久しいな」

　そのひと足で運ばれた身もまた白く、月の光に溶け入るように。朧の輪郭を、色素の薄い髪を揺らし、衣の裾を遊ばせては踏む歩で、一歩一歩確かなものにしていく。
　無風の湖面を撫ぜるがごとき、ささめき声。唇から零れるそれは息に半ば溶けつつも、不思議と玲瓏の響きをもって偽の者へと伝わった。森の湿った空気が、風が、自ら震えてかの者の声を届けんとでもしているように。はきと告げて、彫りの浅い目をより細めたことと
　その足を見るや、衣を見るや、白皙の容貌を見るや、色を忘れた御髪を見るや、月白の訪れを目の当たりにするや……彼女は肩を跳ねさせて身を震わせた。思わず地面につく片手を握りしめて堪える。甲に青筋がたつほどにきつく握り込み、戦慄く唇を開いた。

「……ある、じ」

　その声もまた揺らいでいたのだけれど、奥歯を噛み締めて目元を尖らせることで抑えこんだ。全身がはるか昔より刻み込まれた畏れに戦ききっていたが、それでも掌を白く染めて、地面を押して緩慢に体を向き直らせた。
　逃げる事はせぬ、できない。
　この自然と強張ってしまった身で唯一できる、せめてもの抗す姿勢を取らんとした。
　しかし彼からすれば、油の切れた絡繰り人形の如くにぎこちない、努力を思わせる動きで向き直ってくる姿に瞬いた。遅れてゆるく、口元のみにあるかなしかの微笑みを浮かべ。

「お前は、よく耐えるな。あの時の…養父の手で刻まれた呪について、問う際にも、然様に身を強張らせていた。耐えつつ己と向き合い、自らを貫かんとしていた。……苦しいか？」

　歩みは止まらない。決して急がぬ緩やかなものであったが、律動的に、もうあと数歩の距離まで迫りゆく。

「恐いか、己が。己の力が恐いか。己の血が恐いか。はたまた己の——背負う、名の縛りが恐ろしいか。
では何故にその様に震える。何故に然様に震えてまで、顔も体も硬くしてまで対峙しようというのか」

　白き面をかくりと浅く傾いでみては手を持ち上げた。もうあと四歩ほどで、届く。

「…今も…今までも、苦しい、です…」

　滔々と語り紡がれる囁き声に、瞼を伏せては口中の歯を鳴らした。同時に地に押し付けて、身を支え続ける拳をもより白く染める。体は震え続け、軋み——白が近付くにつれて、その戦慄きが芯より湧き起こるものばかりではないと知れたか。硬く筋張って、拮抗している。

「何よりも恐ろしいのは…こうして、貴方を前にすると…否が応にも今も、屈せざるを得ない躰、が……」

　名を『継いだ』自らは、その縛りからはおいそれと抜けられない。この期に及んで、易くはどうにも出来ないらしい体が恨めしかった。尚も歯を食い縛って唇を引き結び。着実に歩を詰めてくる白を睨み上げていた。

　歩が迫る、あと二歩。

　返された声は苦渋に満ちたものだったが、その言葉の響きも向けられる眼も、屹然とした芯を持っていた。その目は逸れずに、もたげられたままの首も揺らがない。絶えず軋み、内と外との負荷に縛り、絞り上げられて体の悲鳴に晒されつつ、尚。ちらり、とも。

「…己を見返すか、『浮雲』の御人」

　目を針の切っ先の如くに細め、ささめきかけた。
　囁かれる声がもう近い。常に吐息に溶かす声、不思議な余韻をもちつつも擦れる。
　こんなにも白く、こんなにも透明に。視界と耳とを突き刺してくる。

「貴様がいくら名のある魔導の家の生まれだとて、『拒絶』の恩典を受けているからとて、脆く砕ける身を持つお前が……この不死の大神に抗せんとするか」　

　もう、あと一歩。

　肉薄するまで傍に寄られたと思い立った時には獣の鉤爪の如きに曲げた指が、ほっそりとした白い顎を持ち上げていた。
　噛み合わせた歯が勝手にかち合い、幾度となく硬い音をたてた。首が、支える喉が震える。引き攣り、寄せた眉が歪みかけるが。それでも手を今しも伸ばされようとも

「私は浮雲、じゃ……ない」

　今しも断罪を受けようとする秒読みの段階であろうとも。けっして大人しく頭を垂れてはやらないと、睨み据えた。

「私は、偽……、この躰も偽りの……もう貴方の知る虐げられた私と、違う…ッ」

　往生際悪く吼えよう。それこそ大神、狼などには敵わない負け犬の態ではあったけれども、四肢を強張らせ、踏んばらせて屈しはせぬ。
　言葉のみは猛烈苛烈に意気揚々、舌鋒鋭く。だがその身体はぴくりとも言わぬ。石の犬の如きに、しゃがんだ体勢を崩そうとしない。
　真っ向より受け止めて、白は緩やかに目を細めたとも。わらった。嗤った。

「……言葉のみは漸う…だが、伴わぬのがお前の性よな」

　その頭に、手を置きにかかった。指と爪を食い込ませ、引き掴む形で力ずくに上向かせんとする。

「首輪をつけるか、心を埋めるか。花を植えるか、如何にしよう」

　唄うように紡ぎ、その言葉とともに黒を捕らえた白き掌に光が宿り始めた。最初は淡い今宵の月華と見紛うものから、徐々に望月の強さへと変わりゆく。

「…っぅ、…」

　白き光は全き掌より、次第に指先へと集まり始めた。白き手の白き爪に集まり、凝り固まっては鋭く尖る。険しく伸びる。
最後まで抗う事はできなかった。頭は動いた。口は動いた。心は動いたものの、体が動いてはくれなかった。

「……心にしよう。我が血に、心を砕く目撃者となってもらおう。お前が心を発露するたび、離散する感情にしてやろう」

　強いて持ち上げられた頭部の痛みに眉を顰めて唇を結んだ。だがその口が緩み、にわかに唸りを漏らしたのは目の前の掌が光を灯し始めたから。不可思議。神妙不可思議な“神”の字を名に入れるモノの業。　その光が爪に姿を変えて、

「か……はっ！」

　偽の頭頂より胴、下肢に至るまで瞬時に串刺しにした。光は滲むように黒の奥に消え失せ、何かが砕け散るようにガラスの割れる音が頭に反芻した。

「くァ……ッイ……ッ」

　光を失った片手はすぐに離し、白は黒を解放する
　体を貫かれるその時まで。微動だにする事ができなかった。痛みはなかったが、体の内を熱い何かが奔り抜ける感覚に身を総毛立たせた。
　そしてその手が離され、解放されるのと同時に糸が切れたかのように尻餅をついた。詰めていた息を不規則に吐き出し、自然と引き掴んだ胸元を見下ろす。
　切れたのは緊張の糸か、はたまた。尽きたのは何だったか。尚もわらって、唄うよに白は紡ぎ出す。

「……お前の心の線は失われた。その崩れた心を動かすとき、離散し霧散する心は感情を不規則にすること。言霊を受け、その命あらば絶対の服従を科すことを。モノが多ければ多いほどに貴様は責苦を受けるということを」

　思い出したように目を瞠って襟元を掴んではずり下げた。僅かにできた余剰より、胸元に今しも焼き付けられたかの四本指の爪痕が伺えた。首を振り仰がせて、音域はどこまでも

「それでも人として生きるというのなら、勝手にしろ。…生きてみるがいい。逃げてみるがいい」

　最後にそ、と零れ落とすよに紡ぐとともに、白髪と裾を尾のように振って歩み出す。いずれその姿は森の切れ間に消え去る。まるで最初からそこにいなかったかのように、今までがまるで夢だったかのように。

「主……」

　白き姿は二度とは振り返る事はなく、森に差し込む光の中に消えていった。ふと瞬く。気がつけば朝がやって来ていて、小鳥のさえずりが頭上のそこかしこからあがってきていた。
　朝もやの中にひっそりとヒトガタが佇む。
　ようやくと戻ってきた日常に、尚も息を吐き出した。吸っても吐いても物足りない、自然とやはり手は件の印の上へ向かう。

「……帰らな、きゃ」

　手を地面について、よろつく体を支えて持ち上げた。思い出したようにそれまで川底に浸かり続けていた瓶も、掬い上げて。片手に下げたままに一歩を進めだした。
　酷く緩慢な歩みではあったが、森の翳へ消えゆくには十分であった。



　————やがて彼女は、世界を渡り、メルンテーゼの地へと降り立つ。その時までに。
　幻に近い体を持つ彼女はしばし、5日のほどは、不安定の様相を醸し出すこと。

そういうと万已楽は空中の何もない点に向かって指差し

ちょっと気になる反応。頭の中で“本”のページを捲る。該当、不明。
もしかしたら（—思考ノイズ—）かと期待したけれどそう都合良くはいかない、か。

こっそり呟く。どういう意味にとられちゃうかな。
それにしても……

無意識にその髪に手が伸びて、寸前で思いとどまる。苦笑。

ふう、と安堵の一息をつく。
持ち直したように振り返って偽を見つめる。

戦いの中で行使する魔法はエンブリオの助けによるもの。
自分では知識も技術もない彼女は全く使うことが出来ないようです。

やや悲しいような遠い目をしていますが…

考えることは相変わらずのようです。

若干メンタルにダメージが入ったようだった

魔王もその中に含まれる事を、どうやら自覚してはいないらしい。

そうでは無いだろう、と確信を持ちながら。
しかしあえて彼女はそう尋ねた。

謎の張り切りっぷりである。

そう言って少女はまたお辞儀をして、

自分の手に自ら頭を擦り付けるラウの姿に、そう口にしつつ、その姿はどこか幸せそうにも見える。

美味しそうだから好きなんだとは口が裂けても言えそうになかった。
そうこうしている内に訪れた道具屋、ああよかったと、ホッとしたように胸を撫で下ろし。

言ってみるものの、こういう時のお礼って何したらいいのか、少女にはまだよくわからなくて、えーっと、えっと、と困惑している様子の。

小さく溜め息を吐いて、男の顔を見遣る。
そして僅かに右腕を手前へ押し出し、男の動作を牽制しようと試みた。

所作には一分の油断も無く、表情は固さを増すばかりに。

そう言葉を落として、世界を見回した。
緩く吹く風に長い髪が揺れる。
異様、という彼女の表現に対しては、肩を一度竦めることで返答に代えた。

　ぽつり、と独り言のように呟いた。

　噛んだことに関しては特に気にしてないらしい。慣れているのだろう。

　そう言う通り、彼女自身からは特に変わった力は感じられない。いたって普通の人間である。
　渡された昼顔についての説明を聞いて、ふうん、なんて相槌を返し。

手を取られ、ぶんぶんと振られながらの激励が、胸に痛い

言われるまでもない
しかし、それは今に始まった話でもない
それがやだから、ここに来た訳で
それがやでも、どうにもならなかった訳で

何とか笑って、同意してみせる
しかし、それも今に始まった話でもない
カッコいい力なんて、何もないのに
自慢できる力なんて、何もないのに

それでも、まぁ

ノエル達がいれば、何とかごまかしもきくかもしれない。