月の光も挿し込まぬ、昏い路地裏。
　口元に包帯を咥えながら手首に巻いている少女——ラウラ・レ・ファニュは、苦々しい表情を浮かべていた。

（“生え変わった”ばかりの腕だと言うのに。血液流動に力をかなり持って行かれた。……無茶をし過ぎましたね）
　包帯から滲む血液。全身には多量の疲労感が襲い掛かり、肩で息をする有り様。

　無様だ——そう、ラウラは思った。
　真っ当な吸血鬼であれば、このような傷は一瞬で完治していたはず。人間の道具に頼ることもなく、その力をもってドロワやリーゼロッテを撃退することが出来たであろう。以前ミラルカ・ハウダニットに噛み千切られた右腕にしても、もっと早く完治していたはずなのに。

「愚痴を言っても仕方ない、か」
　エヴォルに調査失敗の報告をせねば。取り付く島もないあの態度を知らせるだけでも、それなりに情報にはなるだろう。
　キツく絞められた包帯に僅かな痛みを覚えながら、通信機を取り出すラウラ。手慣れた様子でボタンを押すと、何度かの電子音の後、組織の支部へと繋がった。

「——エヴォルですか？　私、ラウラです。ベルクレア騎士団の調査報告を」

《こちらフリージア、メルンテーゼ支部。ローラ・ピット女史ですか？》
　聞きなれぬ女の声。この世界に来てから、長らく呼ばれていなかった名前。
　予想外の状況に表情を強ばらせながらも、努めて平静に問いかける。

「えぇ、そうです。ヴィルヘルム・エヴォル・メダルドゥスを出して頂けますか？」
《エヴォル博士は、外出中です。何か有りましたらご用件は私までと》
「……、……いえ。後ほど、かけ直します」
　　　　　　　 　　　　 マッドサイエンティスト
　エヴォル——あの 研　究　の　虜が、外出中？　研究中は、寝食すら忘れて洞窟でもどこでも籠もるような、あの男が？

　右手首の奥が、疼く。あの事件が起きた日と同じ、胸騒ぎがした。





　その事件が起きたのは、柔らかな日差しが心地良く、思わずうたた寝してしまいたくなるような日のことでした。

「魔力が——扱えない？」

　そう。幼き頃よりその才を持て囃され、厭きる程の賞賛を受けていた私——ローラ・ピットにとって、それはまさしく“異常事態”でした。
　吸血鬼の象徴であるはずの紅い瞳も、今は蒼い。これではまるで人間のようではありませんか。
　軋む肉体にも構わず、血液で真紅の羽根を広げると、私は自宅へ一目散に戻りました。恐らく直感的に、この不調の原因が何であるか理解していたのだと思います。

「お父様、お母様、開けて下さい！　私です、ローラです！」

　叫びながら門を叩きます。
　しかし返事はありません。もう一度、二度、三度、叩きます。両親や女中の名を呼んでも、家の中からは一切の人気が感じられません。

　私は合鍵を震えた手つきで取り出すと、重苦しい音を鳴らしながら扉を開きます。

「……ぁ」

　吸血鬼の本能が、感じ取ります。——これは血の匂いだ、と。

　一歩二歩と、蹌踉めきながら歩みを進めます。
　エントランスホールには、死体が積み上げられていました。

　父。母。何度か顔を合わせたことのある親戚。屋敷中の女中達。
　いずれも皆、血肉が引き裂かれ臓物が剥き出しになっていました。凄惨な光景。しかし私はそんな中、きょろきょろと周囲を見回します。
　　　　　　　　　　　　　　、、、 、
　死体の山の中には、ある人物が見当たらなかったからです。

「お姉様——」

　そう。カーミラ・ピット——。
　彼女の死体だけが、無くなっていたのです。
　否、死体が無くなったという表現は、あらゆる意味で適切でありません。
　　　　　　 　　　　　　、 、 、、
　正確には、彼女の胴体だけが、消失していたのです。
　カーミラ・ピットの生首は、屋敷に飾られた甲冑の剣に、突き刺さっていたのですから。


　　　　†

　ラウラ・レ・ファニュの手首は吸い尽くされて乾涸び、最早血液を含んではいなかった。
「……、ここまで、ってこと、かな」

　血液摂取による、記憶の追体験を終えると、僕はその場に崩れ落ち——嘔吐した。

「ぐ、おえ……」
　吐瀉物は綴ったばかりの血液の影響により赤く、地面に水貯まりが広がった。
　脳裏に浮かんでいるのは、先程視てしまった死体の山。噎せ返るような血の匂い。吐き気を催すには十二分な、無残な光景だった。

「はっ、はっ、はっ……」
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ゆすぐ
　鞄から水筒を取り出すと、口を 濯 ぐように水を流し込む。
「あれが、ラウラさんの記憶だと、したら……」

　彼女は一体何者なのだろう？
　本名がローラ・ピットだとしたら、何故偽名を使うような真似を。

「——やあ、随分と調子が悪そうだね。大丈夫かい？」

　僕の思考は、場に似付かわしくない、軽妙な男の声により止められた。

「……大丈夫です。お気遣い、どうも」

　男はブカブカの白衣に身を包み、栗毛色の髪を揺らしながらはにかんだ。

「君が、ミラルカ・ハウダニットだね」
「——！？」

　口元を手で抑えたまま、目を見開いて驚く。僕の名前を知っているということは、僕に用があるということか。

「君にちょっと、聞きたいことがあるんだ」
「あなたは、一体誰なんですか」
「あぁ、まずは自己紹介が必要かな？　ボクの名前はヴィルヘルム・エヴォル・メダルドゥス。エヴォルでいいよ」

　信用のならない男だ、と直感した。
　へらりと張り付くような笑みを浮かべているが、その眼にはこちらを観察するような色が浮かんでいる。

「……ミラルカ・ハウダニット。傭兵のようなことをしています」

　しかし無視する訳にも行かない。僕は渋々、エヴォルと名乗った男に身分を明かした。
　するとエヴォルは冗談めかした様子で、肩を竦めながらこう言った。

「ボクの職業はそうだね——悪魔狩り、かな？」

言われて見れば思い当たる節は多くある。
いつの間にか忘れていたような事を呟いていたり。

何か間違っているような気もするが、ともあれ天啓を得たように力強く頷く。