腹に拳がめり込むのと同時に、一瞬視界が真っ白に染まった。
みしりと嫌な音がして、これは肋が折れたなと何故だかやけに冷静に考える。
意識が遠のく寸前に辛うじて捉えたジャックの顔は、自分とは違って落ち着いている様にも見えて。
するとその瞬間、急に何もかもがひどく滑稽に思えてきた。

ああ馬鹿ジャック、お前、本気で殴るなよ。お陰で骨が折れたじゃないか、この野郎。
最悪だ。ああ本当に最悪だ。こんな格好つかないところ、お前にだけは見られたくなかった。
ずっとひた隠しにしてきたってのに、お前はつくづくデリカシーってのを知らない奴だよ。
もうホント、最悪の気分だ。なあ相棒？

頭の天辺から血が引いてゆき、ずるりと体が滑り落ちる。
目の前が暗くなっていく中で、最後に遠く　…雨の音を聞いた。





ざあざあと降りしきる雨音を、恐ろしいと思うようになったのはいつからだろう。
一番古い記憶はとても朧ろで、いくつもの一瞬を断片的に切り取ったフィルムのかけらのようなものでしかない。

その記憶の中では嵐の中、幼い自分が女の腕に囚われている。
冷たい雨で冷え切っているからか、はたまた別の理由なのか定かではないが、女の身体は激しく震えて、
けれどこちらをきつく抱きしめているものだから、俺—— 否、『僕（ルードルフ）』は呼吸がうまく出来ない。
只ならぬ様子を感じ取り、自分はその横顔に向かって縋るように腕を伸ばしてみるが、
その手は伸ばした方向とは逆の方から強く引かれて……

記憶は、そこで途切れている。



その一連の情景は、物心ついた頃には既に強く脳裏に焼きついていた。
特に灰色の雨雲がかかる日、水滴が窓を濡らした日、それが齎す言いようのない不安は低く心に垂れ込めて、
けれどそうして沈んでいると、決まってそれを快く思わない人物から厳しい叱責が飛んできた。
美しいブルネットの巻き毛に、キリキリときつく吊り上がる緑の瞳…
自分とは似ても似つかぬ風貌のソレは、しかし自分の母にあたるヒトだった。

『僕』は世間一般に言うところの庶子という奴で、父の血をひいてはいたが、生みの親はどこの誰とも知れぬ女中だった。
そうであるから母…正確には継母に当たるわけだが、彼女にしてみれば『僕』の存在そのものが面白くなかったに違いない。
しかし正妻である彼女にはいつまで経っても子が出来ず、そこで父は家督を継ぐ人間として『僕』に白羽の矢を立てた。
父はその名を広く知られた権威ある医者で、自分の仕事と名声を引き継ぐ跡目を強く求めていたのだ。
母は日々憎悪を募らせ『僕』を罵り、謗り、虐げたが、父は常より家を空けることが多く、そして家庭には無関心だったので
それを諌めるようなことは一切してはくれなかった。

白い手に頬を打たれ、紅い唇に罵倒され、何より誰にも愛されないのだと絶望するその度、思うのは実の母親のこと。

——おかあさん。顔も名前もその声も、何も分からないおかあさん。
あなたは一体何を思って『僕』の手を放したの。
あなたの知らないところで生きる『僕』は、毎日がとても苦しい。
もしこの声を聞いたなら、早く迎えに来てください。

窓の硝子を伝う雫に自分の涙をひそりと重ねて、暗く陰った外の世界に見知らぬぬくもりの幻を探す。
けれどその一方で、この生活から逃れることは決して叶わないのだと澱んだ心でぼんやりと思った。
自分に選択の自由は無い。一人で生きていく力も無い。
母を求める心は、いつしか憎しみに変わっていった。




けれどそんな日々の中にも、小さな楽しみがひとつだけあった。
子供の頃の『僕』の楽しみ、それは父の書斎に置かれた水槽を覗き込むこと。

その中にはたった一匹、真っ黒な熱帯魚がいた。
長い尾ひれを揺らめかせるそれは、聞くところによるととても希少な種で、
誰かしらが父に贈ったものだと小耳に挟んだ気もするが、詳しいことはよく分からない。
けれど狭い水槽の中で窮屈そうに呼吸をするそれに、幼い『僕』はシンパシーを覚えた。
どこからか連れて来られ、狭い世界に押し込められて、
ただ人間の望むままに呼吸を繰り返すしかないそれに自分の姿を重ねることは、いくらかの慰めになったのだ。

正体の判らない黒い魚を、『僕』はブラックと呼んだ。
唯一誰にも侵されない空想の世界の中、ブラックは『僕』で、『僕』はブラックだった。
ここに来る前までブラックが見ていたであろう海、広い水の中の世界。
その光景を思い描くひととき、『僕』は仮初の自由を得た。
想像の海の中を『僕』はとりどりの魚達と泳ぎ、鮮やかな珊瑚の合間をすり抜けて、きらめく光の中に揺蕩った。
綺麗な世界。自由の世界。そこには何のしがらみもなく、怯えは波が運び去り、悲しみは泡と共に消える。
ブラックは『僕』を外の世界へと連れ出す、小さな小さな鍵だった。



だが、それも長くは続かない。
ある日、いつものように人目を盗んで父の書斎へと向かった『僕』は、その扉が開いていることに気が付いた。
…おかしい。父は留守にしているのに。
そう思ってそろりと中を伺うと、いつもの水槽の前に誰かが立っているのが見えた。

背中の中程で揺れる、艶のあるブルネットの巻き毛。それは見間違えようもない、母の自慢の髪だ。
そしてそのたおやかな手には 何故かどこかで見たような小瓶があって、
かと思うとその蓋を開け、一気に中身を水の中に注ぎ入れた。

（ブラックに餌を与えているのだろうか？ ）

そう思ってもう少しよく見ようと部屋の中に身を乗り出す。
でも、あのラベルには何となく見覚えがある。何だっけ……あれは何だ？
茶色硝子の瓶に貼り付けられている、赤文字で何かを記したラベル。

…あれは父から調薬を学んだ時に部屋の戸棚で見たものだ。
確か、青い文字で記されているものは取り扱いが容易な薬剤。
指で触れたりそのまま吸い込んでも害の無い物だと淡々と説明する父に、『僕』は確かこう問うた。


“——それなら、もうひとつの赤い文字のものは　何？"


「——…ッ！！」

思わず一歩後ずさると、その拍子に肘が扉に当たってガツンと大きな音を立てた。
まずい、と思ったときには時既に遅し。
バッと勢い良く振り返った母は、僕の姿を認めるとその紅い唇をにんまりと歪に吊り上げた。

「あーら！覗きだなんて悪趣味ね、ルードルフ・ビアス。下賎な生まれが知れるわ」

蔑みと嘲りに満ちた声。
けれど僕の視線は、彼女の脇に覗く水槽の中に釘付けになった。

「……」

つい先日までそこで窮屈そうにしながらもゆらゆらと長い尾ひれをたなびかせて泳いでいた魚は、
黒い腹を天井に向け、ぷかりと水面に浮いていた。
口は開いたままになり、黒々とした大きな目は光を失って、急激にどろりと濁っていく。
そしていくつもの泡が立ち昇り、そこから微かな異臭が立ち昇り出すと、
尾の先が、背が、その身が、嫌な色の泡と共にグズグズと溶け崩れ始めた。

驚きに声を失う『僕』を見て、母は何故だか勝ち誇ったような顔をした。

「お前がここにコソコソと出入りしているのを私が知らないとでも思ったの？
流石、手癖の悪い泥棒猫から生まれた卑しい子。魚をくすねようとしたんでしょう」
「……！？」
「そしてあわよくばその他の物、もっと貴重なモノだって盗んでしまうつもりだった。
ええ、ええ、そうに決まってる！！ だからお前が悪さを働く前に、私が餌を片付けたのよ」
「な…何を、言ってるの……母様。ぼくは、…」

「黙れ！！お前に母などと呼ばれる筋合いはないわ！！」

激しい恫喝と共に、細い手指がガッと首に絡みついた。
その勢いに耐えられずどさりと床に倒れこむと、母は『僕』の上に馬乗りの状態になる。
左手では首を締め付けるのを止めないまま、母はもう片方の手で懐から一枚の影像を取り出すと、
それを苦しげに喘ぐ『僕』の眼前に突きつけた。

「お前を産んだ雌豚はこの女よ、私じゃない！
何故私がこんな卑しい身分の女中女に夫を寝取られなければならなかったの！？ もう耐えられない！」


……喚き散らす母の声。しかしそれは、その時ばかりは遠くに聞こえた。
世界の全てがぴたりと時を止めたかのような錯覚。
影像が写し込んでいたのは一人の女の姿だった。
宵空のように深い色味を帯びた、豊かな黒藍の髪。穏やかに細められた薄青の瞳。
フレームの隅には走り書きのような字で　“Belta Leu Blau”　と綴られている。


——おかあさん。


ああ、間違いない。一目でそうと分かる。この髪の色も、目の色も　かたちも自分と同じ。
この人が自分を産んだひとだ。おかあさん、おかあさん。いつまでも僕を迎えに来てくれないおかあさん。

『僕』は息が出来ないのも忘れ、その小さな紙片に手を伸ばそうとした。
が、指先がそれに届く前にぐしゃりと握り潰される。
身体の上に跨る母はその目にギラギラと異様な熱を宿して、今度は両の手を『僕』の首にかけた。

「殺してやる…殺してやる……もう沢山！！」

ぐ、と力が込められて、更に呼吸が苦しくなる。
やめてくれ、ともがいて訴えても、もはや完全に理性を失っている母には届かない。
じわりと涙の滲む目をちらりと横にやれば、最早ドス黒く濁ってしまった水槽の中に、
かつてブラックだったものの残骸がまばらに浮いていた。


（このままだと…死ぬ。死んで、自分もああなってしまう）
（可哀想なブラック、もうひとりの僕。僕もああして死んでいくんだ）
（僕は一体何のためにこの世に生まれてきたんだろう。捨てられ、憎まれ、恨まれて、こうして殺されるため？）
（そんなのって、そんなのって、）

（そんなのって、いやだ。）


そう思った瞬間、『僕』はまるで何かに弾かれるように母に向かって思い切り拳を振り上げた。
母が怯んだ一瞬の隙を突いてがばりとその身を起こすと、そのまま素早く身を捩り、今度は逆に母を床に組み伏せた。

「何をする！！離せ！！野蛮人の子！！！離して！！！！」

金切り声を上げ、ジタバタと暴れる母。血走った目が『僕』を思い切り睨めつける。
そんな様子を見て、『僕』は自分の頭が不思議に異様に冷えてゆくのを感じた。

「…ひとつ、良い事を教えてあげるよ、母様。首を締めて殺したいなら、それじゃ駄目。
頚動脈と気管を同時に塞いで、息を出来なくして、脳への血流を止めるんだ……」
「何、を……！？」
「そのためには何も、強い力が必要って訳じゃない。首のとある部分を、決まった角度で軽く圧迫してやるだけでいい…」

そう言って親指と人差し指で、『僕』は白い喉のある一点をぐっと押した。
母の瞳は驚愕のあまりこれ以上ないというくらいに見開かれ、顔はみるみる内に赤く染まった。


——父は『僕』に人の命を救う術、即ち医術を叩き込んだ。
彼が言うには、傷病を退けるにはまず、人体についての理解を深めることが肝心なのだと言う。
人の仕組みは命の仕組み。生かす方法を知るというのは、殺す方法も知るということだ。

そして『僕』は今日、初めて学んだ事を活用する。
……母の命を奪うために。



「僕は間違ってない。こうしなきゃ、僕が殺される」



——母の抵抗が止み、呼吸が止み、脈が停止して、完全に事切れたのを確認してから、
『僕』は脇に落ちていた影像を拾い上げると、そのまま何一つ持たず家の外に飛び出した。





外は、土砂降りの雨だった。
晩秋の夜に降りそぼる雨は、凍えそうなほどに冷たい。
けれど僕は走るのを止めることが出来ず、宛もなくただ闇雲に走って走って走り、走った。

『僕』は人殺しだ。

ぞっとするようなその事実から、逃げ出したくてたまらない。
けれど走ったところで何が変わるという訳でもない、解っている。
寒い、とても寒くて気持ちが悪い。腹の中の内臓が全てひっくり返りそうだ。

水が冷たい。目の中にも絶え間なく雫が流れ込んで前が見えない。
それともそれは自分の涙なのだろうか。判らない。無性に叫びたい。

手のひらの中で最早くしゃくしゃになっているであろう、実母の影像を思う。
おかあさん。『僕』を産み捨てたおかあさん。紛れもない『僕』の本当の母親。
初めて知ったその顔は、全てを包み込むような暖かさを持って、穏やかに微笑みかけていた……。


（あなたが憎いです、おかあさん。僕をこの世に産んだあなたが…そして見捨てたあなたが。）


ゆるゆると歩調を緩めて肩で大きく息を吐き、そのまま地面に倒れ込む。
ばしゃりと跳ね上がった泥の中で、『僕』は力尽きその目を閉じた。



（おかあさん、僕はあなたを許さない。 いつか必ずあなたを殺す。）

くつくつと笑いながら、少年と少女を見下ろした。

少女はソワソワしている。