ENo.185 偽さんを書かせていただきました。企画参加ありがとうございました。

■本文

　五月になるとスズランが甘い芳香を放ちながら咲き始める。
　僕は、まだ誰にも汚されていない早朝の甘い空気を楽しみながら、庭先で水やりを終えたところだった。
　家の周りを囲む広い庭は、僕によって十分に手入れされている。季節ごとに咲く花々は順調に育ち、僕の気持ちに応えてくれていた。草木は好きだ。人間よりずっと。
　草木は四季の折々に素直な表情を見せる。この子たちは僕のアプローチが間違っていたら育ってくれない。
　でも人間は違う。僕のアプローチが正しくても、正しい反応を返してくれるとは限らない。だから人間は苦手だ。
　ふと、
「精が出るのね」
　と僕を雇った夫人が庭先に出てきた。
　夫が王様に呼び出されてから帰っていないと言う。王様がなにを考えているか、誰にも分からない。圧政に苦しめられた人々の一部は、反乱を起こしたとも聞くけれど。
　人手が足りなくなった庭は荒れかけていたが、そこで僕が雇われたわけだ。街角で花売りをしていた僕は、いつも生活に不安を抱えていた。夫人からの誘いはありがたかった。
　僕は行儀よく答える。
「いえ、これが僕……私の仕事ですから」
　危うく一人称が僕になるところだった。
　丈の短いジャケットにワンピース。それが僕の格好だ。
　僕は生物学的には女に類される。でも僕は、自分を私と言うのに抵抗があった。それが何故かは分からない。それでも僕は、僕なのだ。それ以外の呼び方はない。
　夫人はにこやかに笑う。
「今から朝食なんだけど、一緒にどう？　まだ済ませていなければ、だけど」
　夫人の言葉に僕は戸惑いながらうなずく。
　今朝のメニューは、トマトのソテー、香草を入れたソーセージ、サツマイモのヨーグルトサラダ、パン、そしてコーヒー。まともな朝食はいつ以来だろう。
　僕は、夫人と、その息子である少年と共にテーブルに着く。
「偽（ぎ）、トマトもらうねー」
　と一○歳にも満たない少年が僕の皿からトマトを一つくすねる。
　偽、というのは僕の名前だ。本名は知らない。両親も知らない。
「あ！　僕のトマト！」
　しまった。
　思わず普段の一人称になってしまった。
　案の定、少年からからかわれる。
「女の癖に僕だってー。変なのー」
　僕はもう二○代前半になる。外見は一八歳程度だが、それにしても女の子が僕と言うのは確かにおかしいだろう。だからと言って改めるつもりはないけれど。
　夫人が少年をたしなめる。
「こら。お行儀が悪い」
「はーい」
　と言いながら少年は僕に向けて舌を出す。
　可愛くない。
　ぴんぴんと跳ねた少年の赤毛が生意気な印象を強める。しかも僕は少年に何故かかまわれるのだった。いい迷惑としか言い様がない。子供は苦手だった。子供たちの澄んだ目が僕の弱さを見抜いてしまうような気がして。
　かちゃかちゃと食器が触れ合う音。母子の和やかな談笑。食事が賑やかに進む。
　これが家庭と言うものだろうか。僕にはその光景はあまりにも眩しい。
　ねえ、と夫人が微笑みながら提案する。
「貴方さえ良ければ、毎日一緒に食事しない？　うちの子も貴方のこと気に入ってるみたいだし」
「私は……」
　と僕は言いよどむ。
　なんと答えていいか分からなかった。僕は人間から好意を向けられるのに慣れていない。こういう時、僕はどうすればいいのだろう。
　その時、がしゃがしゃという金属音が庭先に立った。
　一体何事だろうと僕たちが庭に出ると、黒光りする甲冑をまとった兵士たち四人が僕を睨む。見ただけで分かる。王様に仕える兵士たちだ。僕は思わず身震いした。
　兵士たちは高圧的な態度で僕に言い渡す。
「貴様、偽だな。反逆者だという疑いがかかっている。連行する」
　僕は事態の進展についていけなかった。
　しかし連行されたら、夫人の夫のように帰って来られないかもしれない。
　僕は両目をぎゅっと瞑って叫んだ。
「寄らないで下さい、来ないで、見るな！」
　という僕の声に反応して庭の植物が蔓を伸ばす。蔓は一瞬にして兵士たちを絡め取った。身動きを封じられた兵士たちはばたばたともがく。やっぱり植物は素直だ。僕の声にちゃんと反応してくれる。
　僕は夫人たちに振り返った。
「ごめんなさい。貴方たちとは一緒にはいられません。私は……僕は、ここにいてはお二人に迷惑をかけてしまう」
　僕は手間暇かけた庭を通り過ぎる。
　この子たちともお別れだ。この庭の主である母子とも。
　僕はきつく空を見上げて目尻を手で拭う。
　泣いてなんかいない。

愛は知っていても恋はあまり知らないようだった。