彼女は夢を見ている。見ているのではないか、という甘い躊躇い。
風の流れる気配。煽られた髪、細めた瞳に映るものは、金の光（朝が来る）、風に惑う亜麻の髪が艶めいてうねるひとつの波、風、風、風、雨。雨が降り注ぐ。世界はこんなに光に満ちているのに。眩しいと思う。光も。煽られた全ても。雨粒がディアマンとなって宙に浮かぶ。弾けて、結びつき、象牙の上で砕け散る。雲はない。空に浮かぶ、目の前に大きく口を開ける、その。息を吐いた。鼓動が大きい。ごうごうと風が鳴っている。時折砕け散った世界の硝子片が巻き上げられ、流され、海に墜ちてゆくのを見る。なのに、理性は真っ直ぐに風の生まれるところを見つめ、そうして腕は振り上げられた。下された時になるのは、鐘の音。鐘。（わたしの好きな音、それは何の音……）鐘の鳴るとき、彼女の意志は、またひとつの選択を、彼女の生涯で恐らく唯一の選択をする。曖昧なものなどこの世界にはない。真に絶対の美があり、世界を治めるひとつの存在があり、選び取った彼女にとっての唯一の正義がある。彼女の胸の中で錠の落ちた部屋にしまわれたたくさんの羽、そのひとつひとつが彼女の選び取った美。真っ直ぐ歩むことも出来た。己の美しさと同じように。彼女は美しい、美しく形作られ、世界へ誘う階段の中腹に生まれ、その階段を上り切った先の輝ける未来を、光景を望み。

流されるという選択。知らないものを呑み込む選択。
それが己が内の箱庭をぐちゃぐちゃにしてしまわないと誰が約束できる？

雨は今も彼女にシャワーのように、宝石の欠片として流れる。（わたしが白のドレスならきっと似合う）、水平線にかかる薔薇のひかり、どこまでも濃く沈み込む島々の稜線、霧のかかるところ。白砂が波頭に交じり合い、世界の交じり目はどこまでもマーブル模様。波と海。鮮烈な世界、かぎりなくあざやかな。息を止めて、見つめた。もう帰れないだろう、そのことを彼女は知っている。この世界に生まれた女として、タカージュドールの女として生きることを選んだその代償として。帰りたいと思う日もあるだろうか、その時帰ることを選択できる女でいることができるか、あの波に打ちのめされず、揺さぶれず、（そしてその時は泡の中から生まれようか）、ひかり、太陽の、そして世界の目覚め、花の色、囀り、花弁がこぼれる気配、ドレスの裾をぬらさぬように雨を巻き上げる風の、世界の、父の慈しみ、この世の春の春、絢爛の春、……。

肩甲骨には翼の名残。飛べない小鳥、飛ばない小鳥。この世界の美しさを愛している、世界はわたしを歓迎している、自身を構成するすべてを望んでいる、なのにわたしはどうして。応えはなくてもいい。今は、ただ、（この骨に宿るものがあるのなら）

吐息。瞬き。唇が動く、音のない声。（ああ、うるさい……）胸に置かれる美しく手入れのされた、手。僅かにこめられる力の隆起。頬に散る薔薇の、色。（わたしの鼓動がやまない）（死んでしまいそうなほど、）


（ああ、わたしは墜落するのだ……）




——この世界の呼び名を知っていて、フィガロ？

（あの御方の愛しい鳥籠）

タカージュドール、美しい箱庭。
そしてわたしたちは愛されたあの御方の娘、
この鳥籠で寵愛を受けて囀る小鳥

（ちがう、わたしはちがう、マ・エトピリカ……）

ほら、鏡を見て。なんて美しいの、フィガロ。
さすが、ノゼル、わたしたちの美しい翼……





墜落することに、奇妙な快感を感じる。身体の奥底から何かが暴れる気配がする（トリカゴ、お前）。
どこにいくかもわからない、その運命を——それを運命と呼ぶのなら。
そこでわたしは、どれくらいわたしの道を、まっすぐに伸びる、律された道を歩むことのできるだろうか。
流されることなく。風の流れる先を、雨粒の流れゆく先を、波頭の砕け散る先を。