暮れかけた日が空へかすかな銀色を加えていた。広場を離れて川を下る街外れの区画はそうした夕暮れにひときわ明るさを引き止めていた。落ちる影の小さな建物の低いその一隅は夜にこそその闇をひどく深くしながら、暮れきる前の明るさは中央や北よりも少しだけ長かった。私は足早にそこを過ぎて母との家へ帰るのが好きだった。私たちの家へ通じる街灯のない道を、夜が来るよりも早く歩き通すこと。その頃には私はまだ立ち止まることができた。後戻りすることさえできた。けれど幼い日の私は薄明るい夕空に追われるふりでいつにも早足で家へ帰った。夜は私よりもむしろ母が恐れた。彼女は文字を読めない暗闇をいつのときも恐怖していた。彼女は枕元の明かりを絶やさないまま本を読みながら眠ることを習いにしていた。覚醒してある意識の最後のひとときまで文字で埋め尽くそうとするように。







時には私は母の仕事場で夜を過ごした。印刷工としての彼女の速やかで鮮やかな技芸は町の誰よりも恐らく優れていた。両手を左右の別なく器用に使い分け、恐ろしく正確に文字の形態を表し、活字を鋳し版を組んだ。が、その痩身へからみついた病のために彼女へ配された仕事は時おり人よりも遅れた。
「朝までに済ませるから、適当に寝てちょうだい」
「母さんはいつ寝るの？」
「終わったらかな」
そう笑う彼女の横に堆く積みあげられた原稿の山を、母は私が夜明けに目覚める頃には有言のとおりいつも美しい版へ組み終えているのだった。粗いつくりの椅子を四つ並べて、外套に包まって眠る母の寝顔を横目に、私はその版の並べ連ねられた鏡文字を読むのが好きだった。私の字の手くせがどうしてか折々に鏡文字をとるのは、ひとえに左利きのためばかりではなくて、そうして昔から母の組んだ鏡文字をばかり読んできたせいかもしれなかった。左右をまるで逆にしながら、それは私にとってはたしかに文字で、紙の上へ下りていくよりも先の、文字の原型としての、より本来的な姿だった。文字は本当は「逆の姿」をしていて、現実世界へ下りてくるその時に、反転した衣を纏うのだった。その逆立した印象はずいぶん長いこと私に続いていた。……







ある世界の革命にも人々は長い距離を歩いていた。山を越え森を迂回し、砂利や堅い根や石つぶたちの残る荒れ地を越えて王城を目指していた。こしらえた革靴はいくつも穴が開いて継ぎだらけになり、進軍のための糧食は夜毎に頭を悩ませた。歩くことが人々の自らに課した使命であり、革命を可能にするために満たさねばならない条件だったが、その道行きは艱難と煩悶なしに果たされないものだった。あまりに遠い道程に、けれど労苦の先に訪れる希望を頼りにして人々はいつしか歌い始めた。明日が来れば土へ鍬を入れるというほどのいうほどの農業歌が、節と拍子を変調させ、単調であれど雄々しく、道を踏破して王へ刃を突き立てる趣旨の歌詞に乗せて歌われた。行軍は拍子に合わせて足を踏み鳴らすものに変わった。歌に合わせて歩みは確実に速くなったが、歩みの調子はもはや音律に支配されていた。これは彼らの選びとった戦うための手段なのだと自分に言い聞かせながら、行軍のなかで私は抑えがたい吐き気を感じていた。私の中の革命はあまりの個々人の単独性を重んじすぎていた。革命は論理によって組み立てられることを望みながら、私の革命への欲求はまずなによりも生理的なものだった。ために、革命の姿への私の中の生物的な好悪は、たびたびにあるべき革命の姿をさえ批判的に嫌悪した。革命にこれほどに縛られる私が、歌に縛られた行軍に何を語れるのか？　歌う者の絶えた夜にはそうした暗鬱な疑問と向き合いながら過ごすことができた。そうでない時には——……けれどその世界の革命はついに挫折で終わった。とうに力をなくした王が殺された後には民衆の中の一人が王冠を継いだのだった。人は、支配されることを選びとる。逃れ難く。被支配への願望もまた、人が病む呪いだった。……







どうしてこうなったのか、と、過去を幾度参照しようとしても記憶は抜け落ちがちだった。あるいはどうしても心中での改竄を免れなかった、過去は記憶の中にあり、記憶は本よりも脆弱だった。私には過去を読むための本が必要だった。いつの頃からかそれを求めていた。幼い日に母の組んだ版からそのための魔術的な薬理があることを読んだ覚えがあった。亡霊にようにまとわりついて帰り来る過去を、どこかで違う道筋へ導くための、果てない喪の、葬礼の、弔いのための参照項、……「ルヴナンを鎮めないとならない、ルヴナンを止めなくては、あたしたちの革命はどこへもいけない」。譫言のように云う私へ耳を貸す者は少なかった。あるいは亡霊を見ていたのは私だけであるのかも知れなかった。私には確かに同じものの限りない反復と思えたそれらの姿も、見る者にはある種の前進であるのかも知れなかった。けれどいつの頃からか私はルヴナンに憑かれたようにして生きていた。革命や戦いの合目的性を、終端 fin へ、目的 fin へ至ることを破壊する宿命的な反復……







母の仕事場で鏡文字で読んだうろ覚えの過去視の麻薬をルヴナンと名づけたのは私だった。それは形態の定まらない過去を活字のように固定し、本のように自在に振り返らせた。多くの類比によって機能する民間呪術のように、ルヴナンもまた活字との類比によって……錫と鉛とアンチモンを自らの原料の一部とすることによって生まれていた。闇によって変質した霊草が所要素の方位を人体へめぐらせ、宿主に若き肉体を留めさせ続ける鳥籠の世界のウイルスが五感を過去の思い出へ立ち戻らせた……その呪わしい牢獄のとおりに、使用者の臓腑をひどく急速に老いさせたとしても。ルヴナンの一切の機序は私たちの過去の咲く庭から形作られていた。探し求めていたものはこの世界にあり、私は偶然として、けれど導かれるように、おそらくは母の私に託したエンジェルによって、どうやら辿り着くべき場所に辿り着いていた。けれどこれもまたひとつの道程、ひとつの開始点であることもまた明らかだった。







終熄へ向かうメルンテーゼの革命の中で、私たちは長い大廊下を抜け川の方へ下っていた。足音はそれぞれにばらばらだった。けれど六十日と少しの革命を通して、私たちはどうしてかまだ三人でいた。そのことを何に感謝すればいいのかわからなかった。神を持たず、王を戴かない私に、けれど、何かに感謝をしたい気持ちは残っていた。それもまたどんな人間の中にも、革命者たる私の中さえわずかに眠る、あの被支配の欲望であるのかも知れなかった。……