もろもろの身飾りと香り、身じろぎさえ甘やかな光のように花開く天上の優雅が夜を通して実存を聞かせる。闇の底には闇よりもひとつ深いところにうずくまる暗く冷たい空無がある。慣れたふたつの愛しい気配の傍らに、今日はもうひとつの息遣いがある。聖性……エンブリオのいだくその性向に聖性と名を付すのが正しいのかは今もわからない。光るわけではなく、燃えるわけでもなく、あざやかながら隠されていて、聳えながら見つめがたい、おののかせるとともに愛されたいと願わせるあの威力を、私は仮に聖性と呼び習わしてきた。エンジェルのエンブリオの力能に伴う、奇妙な浄らかさ。

今、私の外にあるその聖性の主、カミユは、私から天使の匂いがすると云った。鼻を利かせてもそれらしい香りはわからない。煙草の香りのほうがよほど際立つようにさえ思える。でもそれは聖性という私の付した名の、カミユにとっても腑に落ちないものであるかも知れないことと結局は同じことだ。それぞれに自らの世界にあらわれている事象へ名前をつける。それは時に触れ合い、時にすれ違う。天使とて。

エンブリオには悪魔がいる。魔獣もいる。不死者も妖精も神と呼ばれる存在さえもいる。ただ、天使だけはこれまで見つけられていない。世界に遍在し誰もが契約を交わすことのできる、あのすべてに存在しすべてから隠れる、エンジェルのエンブリオのほかには。

左手をあげると闇のなかに細い光の糸がこぼれて、翼を真似た輪郭をつくる。それは畢竟まねごとの恩寵で、鳥のように飛ぶ力はない。ただ、祝福する力はある。翼は私たちを祝う。かつて革命の世界を支配した魔王の名は翼 aile といった。その支配を打ち砕き回転させた革命者たちは、革命者みずからの翼で羽ばたくことを夢見ていた。翼を王の支配から解放しようとしていた……翼持つ権利をすべての者に。それが大革命の望みだった。

けれど翼をめぐる戦いは終わらなかった。戦いは戦いを呼び、一度王殺しを赦されてから先は支配の破壊は止まらなかった。革命と名を与えられた戦いは互いの翼をつかみ千切り合う惨状だった。翼は祝福されていた、ただ、ひとつの翼が羽ばたきながら場を持つには、そこにほかのひとつの翼があってはならなかった……

枝々に打ち当たりながら鳥の落ちてくる幻。死んでいる。抱き上げた肉体はひどく重く、どうやってこんな鳥が飛んでいたのか、不思議に思えた。名前を知らない白い鳥は鴨よりも鴉よりも大きく、羽根にも腹にも外傷はなかった。撃たれたわけでも争ったわけでもなく、飛びながら死ぬ鳥がいるだろうか。道具もなしに森の土を掘るほどの力は少女だった私にはなく、木の根元にせめて横たえるにとどまった。なにももう映さない鳥の目が私のほうを見ていた。ひとつの外傷もないはずの鳥を抱いていた手は、すこし粘ついた透明な液体で濡れていた。

湖のある森だった。逃げるように足早に鳥の亡骸を離れて、辿り着いた夕暮れの湖面は静かだった。風ひとつなく、木々はそよがず、湖面は永久を比喩していた。息を整えることもなく、私は足元に石を拾い、湖へと投げた。石は水切りを続け、ひとつふたつ、みっつ、湖上をその着水のたびごとにかき乱しながら跳ねていった。とどまれば沈む。命はするどく回転しながら進み続ける。一瞬ごとの着水に支えられて、一瞬前の虚空をそのたびごとに置き去りにしながら……秋の夕暮れ　私はあのように生きる　と私は思ったのだった。飛びながら息絶えた名の知れない白い鳥を背後に、それでも私の翼のための空があるのだと決めつけて。

おお、ルヴナンの幻が私をさいなむ。過去が舞い戻る。私はそれを見つめる。いくつもの失敗した革命、挫折した自由への営為、どれだけ見返しても選択は袋小路で、永遠をあと何度繰り返せば羽ばたくことのできる空へ辿り着くものか私には見ることができない。ばらばらに崩れていったものたちを私は見返す。過去は遠く時間の向こうにあり、私には未来を築くことしかできない、その未来さえ過去の似姿が弔われ損ねてまた立ち戻る。天使……その翼は聖性として私を祝福する。けれどまたその翼のゆえに、私は飛び続けるほかの道がない。……

はじめに血の香りがする。鐘を鳴らすような幻聴。胃から混み上がるぬるい熱。もう咳き込むこともない。頭を下げて、ぬるりとした血の塊に喉を逆流させ、音もなく血を吐く。鼓動に合わせてトントントントンと耳の奥で音が鳴る。大礼拝堂の床に私の血が染み込んでいく。ルヴナンに蝕まれた胃のおそらくは痛みだった。白い過去視の麻薬は避けがたく肉体を滅ぼす原料を持つ。私とて例外ではなく。それで死ぬなら楽なものだ。だが死はまだ私に遠い。まだ動く足が翼のように私を大礼拝堂の先の未来へと運んでゆく……





しかし逆走はできません、我々はただ前に進むしかないのです。

……世界律

多分彼はそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗力的に運んでいく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、この強風なのだ。

……ヴァルター・ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』

小首を傾げながらも、つられて微笑み。
しかし続く会話の内容に、その微笑みもはたと消え。

僅かに火照ったままの頬を片手で抑え。

長い指に胸をつかれ、はっとしたように顔を上げる。
しかし長くは目を合わせず、再び視線を落として。

伸ばされかけた手に気づくことはなく、
煩わしそうに睫毛に乗った何かをはらうように瞬きをし。
子供、という言葉にオルガを見やって一瞬不満そうな顔を見せるが、すぐにまた視線を逸らし。
いくらか何かを言おうと逡巡したのか、口を僅かに開いたまますこしの間を置いて。

どことなく照れくさそうにそれだけ言うと、取り出された紙にはたと目をやる。
書かれたなにがしかを覗き込むように、わずかに身を乗り出し。

メルンテーゼの生まれかもわからない、の言葉に。

いつかほんとうに帰る場所はなく、焦燥がある。
呪いのため。
それらの言葉にわずかにかたくなっていた表情が、さらに強ばる。

ふてくされたようにワインをあおって、空になったグラスを置く。

そこまで言って、ちらと自分達のテーブルに加わるフィガロの姿を見やる。