眼球が揺れる。ルヴナンを摂らなくては。ルヴナン。過去視の麻薬。私はそれを通じてさまざまを見てきた。記憶のなかの過去を。再現される劇場に上がる姿は奇妙に明晰で切迫している。幻とはそういうものだ。少なくとも私にとっては。夢見心地に幻覚とわかるような幻覚に私は生きていない。幻はいつも現実と区別がつかない。理性的に捉えられた連続性の文脈だけが「こんなはずはない」と幻を否定する。心に現象する視覚、触覚、聴覚、嗅覚、どれも幻は現実にあまりによく似ている。過去を見通す時、私たちがそれに対して必ず一定の距離感を持つのとは裏腹に。過去は現在として、幻の中で逃れがたく私に現前する。黒い花が咲いているのでそれを踏み折りながら進む。それは嘘だ。私は廊下を歩んでいる。黒い花はここにない。しかし、差し迫る現実性が黒い花を存在させる。ルヴナンは認識を穢す。ぶり返す幻覚から逃れるために、理性によって一貫された物語が必要となる。昨日はどこにいたか？　今朝はなにを食べたか？　今は何をしているのか？　時系列に記述された物語を、この物語が現実なのだと名づけて、私は黙読し直す。すると幻覚の中で歩むことができる。現実を一貫した幻覚として持つこと。それはもうひとつの幻と生きるすべを与えてくれる。



印刷工の母の字は美しかった。そのまま本にできるくらいに。このまま母さんが全部書いて本にしたらいいのに、と言うと少し咳き込みながら苦笑した。それじゃ一冊しかできないし、時間がかかる。活字を拾った方がいい。活字は綺麗だよ。母の骨ばった手が文選箱を軽やかになぞって採字する眺めは美しかった。それでも活字は母の字よりも生命に欠けて見えた。印刷を仕事とするくせ母はあまり本を買わず、代わりに損紙に自分の筆でいくつもの物語を書き付け、糸と布で簡素に製本して私に与えた。レルヴォヴェールに出版された本のこともあれば、印刷工たちの誰も知らない物語さえあった。母の創作かと聞かれると、彼女は笑って首を振った。昔別の世界で見た話だよ。覚えてるんだ。覚えてるから書ける。市販の本よりも私は母の書くそうした損紙の集積を愛した。母は詩と小説を記憶のなかから引き出して私に与えたが、仕事を選べる時には印刷工として手を染めることをできる限り避け、小難しい学術書や論文を中心にものした。小説は手で書く。そうでないものは活字で書く。幼いころに私はそれをなんとなし、文芸的な表現は手で味を出したいというサンチマンタリスムだと捉えていた。

母の後ろで棄てられた活字を拾い、融かし、鋳造し直すようになるまでそうはかからなかった。文字を見つける母の手は恐ろしく素早かったが、誰かと協業する時には必ず相手の呼吸に合わせていくらかの間を挟んだ。その柔軟さが彼女の技術の買われる理由だった。原稿に入れられた赤字を見るたびに母は嬉しそうに笑った。ひでえ直しだ。大した赤字だ。こいつ、自分が何を書いたのか分かってないんじゃないか。莫大な校正赤字に合わせての版の組み直しは大変な作業になった。年配の印刷工はそうした赤字に愚痴ってみせるのが通例だった。最初の原稿でこちらは組んでるんだ。著者校正でこれだけ直されるんじゃ初校の意味がない。これでやってくれと言って反故にするのは、印刷工に嘘をついているようなもんだ。そうした愚痴に母はいつもなだめ役となった。著者なんだからいいじゃないですか。自分の文章なんだよ。自分で直さなくちゃ誰も直さないよ。この人の文のことは守ってやりましょうよ。金はふんだくろう。年配の印刷工はそうして母になだめられるのをどこか楽しみにしている風もないではなかった。贔屓目は拭い切れないが、結局のところあの印刷所は母によって良い方向に変わっていたのだと思う。母はとりわけ著者を大切にし、著者の願いを叶えようとした。この人の文章なんだよ。

母は酔わなかった。聖人サンセットジーンの加護が酔いを遠ざけるのだと語っていた。いつまでもしらふなんだよ。死ぬまでしらふだ。隅々まで明晰で、光に満ちている。一度だけ、母はそう語った。誇らしくというよりは寂しげに。

母は彼女の生まれた世界に写本をわざとしていたのだという。がりがりに痩せた、目の悪い、学者ぶった鼻持ちならない、 肺病病みの、しかし秋の西日を熔かしたような長い美しい金灰色の髪を持った異邦人の活字工、彼女の肩胛骨の合間には、焼き潰したような古いケロイドの痕があった。そうしてその傷痕を取り囲むように、《ange》と読める、美しい文字の形の痣があった。