一羽の蝶の羽ばたきが、分割世界の隔壁にひびを入れる。

わたくしの耳を叩いたのは誰であったか。
記憶にない。頭の隅に張り付いているのは言葉と意味の二つだけ。

箱庭の外をこいねがう。
人の心を持たされビルドされた者にとっての悲願。
心の奥底で、誰しもが蝶の羽ばたきを望む。
希望で曇る瞳に自由の対価は映らない。

わたくしの“蝶の羽ばたき”は、階差機関に放り込んだ一枚のパンチカード。
羽ばたきは確かに実を結んだ。断壁の世界——人狼のために誂えた牢獄——の外に、確かに居る。


蝶の羽ばたきが見せる夢は心を揺さぶる。
傷だらけの胸、もはや開く鍵すら無くした男の記憶でさえ。

グレン・ボールドウィン。
コルンヴォルフをカンバスに蘇ったかつての狩り手。
人の腕では引けぬ弩を軽々と扱い、人の目では見えぬ敵を何事もなく撃ち抜く本物の射手。
属した群れの崩壊を目にし、自責の念から過去にとらわれた男。

群れを失った狼は正気ではいられない。
群れでの生存に特化した生物故の弱み。群れに最適化された心は他の水で生きられぬ。
ただの狼でさえ、群れを失った個体は二度と群れに属せない。
人狼も……ダグラスほどの政治力と精神力を持つ狼は別として、たいがいは“何処かおかしくなる”のだ。
孤独は心をさいなんで、狂気の片鱗が芽生え、心は死に絶え。
そうして、そのうちに人を人とも思えなくなる——…古き時代の化け物に戻ってしまう。

グレンが狂わなかったのは、狂う前に酒に逃げたからに他ならない。
孤独を忘れ、狂気を見落とし、心を空っぽにし。
アルコールの見せる夢を現実と思いこむことで、かろうじて精神の均衡を保ってきた。

ただし心は夢の中。二度と醒めぬ檻の中へ。


——彼は優しすぎるんだ。優しくて、けっして残酷になれない。


仄蒼く輝く光蘚。あまりにも幻想的な森の中。
思い返す。酔いつぶれたイプシロンを担ぎ上げ、フォッグライズまで戻る夫の声。
貴方が夢に逃げたのは、そうしなければ人の世界で生きられないから……そんな優しさなのかしら。
ぼんやりと虚空を見上げる狩り手に答えはない。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 ノルトリヒト
一羽の蝶の羽ばたきが、灰色の夢を染め上げる極光となる。
狩り手が目覚める時は近い。

男はバツが悪そうに頭を掻いている。

昨日見た夢を思い出してニヤニヤ笑っている。
……かと思えば、

今度は肩を落としてため息をついた。

治療を施したにしては妙な単語が並ぶも、当人はまったく気にしていない様子。
ため息を零すと、御者の背中に声を掛ける。

御者台はガタゴト音がして、言葉の通りが悪いらしい！

虚ろな瞳の男の前に、ひらひらと蝶々の羽根の生えた女の子が飛んで来て首をかしげている。

見えてはいるらしいが、その所作、その言葉に“歓迎”の意志は見られない。
一体誰を狙ったか、慣れた所作で猟銃を振りかぶる。

“忠狼”と呼ばれたことに気をよくしたのか、
構える運び屋の頭から背中にかけてぶらんとぶら下がると、
狼は尻尾をふりたくってる！