人気のない裏通り。少女は声を噛み殺して叫んだ。

本名、ミハイユ・ガウ。
山村に暮らす、インドア派の少女。
趣味は読書で特技は料理。
カフェを営む実家の手伝いしながら医療を志すも断念、将来の道に行き詰まった18歳の、ごく普通の少女。

……いや、ごく普通の少女と彼女のことを片付けるには、一つだけ大きな個性があった。

彼女は、夜魔と人間の混血児であった。
強靭な体力と不死の肉体、高等な魔力を帯びて、
姿形を自在に変え、幻を使い、男には夢を見せる。

……はずだった。

この魔女は、二年前、夜魔の体質に翻弄されていたミハイユの元に現れ、
魔力の扱い方を教える、と囁いた。
魔力の使用方法。保持の方法。
魔力を抑え、計画的な魔力の摂取を覚えれば、無闇に人を襲わずにも済む。
魔族がこの世界で生きるためには必要な技術だと。
そして魔女は、実際にその方法を伝授した。

しかし数日前、突然彼女は姿を消した。メルンテーゼに行く、という書き置きと共に。
その書き置きには追伸として「ごちそうさま」という感謝の文が添えられていた。
そしてミハイユは、自身の身体から、一切の魔力を感じ取る事ができなくなっていた。

そう言うと、一見聞こえはいい。
が、それが何を意味するか、魔女は知ってて言っているのだ。

その魔女は錬金術師だった。
魂の穢れと不老不死、そして永久機関について研究を重ねていた。

魔族は清浄な魂からは、魔力を練ることができない。
ミハイユにとってその宣告は、魔力を奪われただけでなく、
その魔力を補給する方法すら絶たれたということを意味していた。

ミハイユは、そこで会話を打ち切った。人の気配を感じたからだ。
一瞬身構えるが、すぐに警戒を解く。どうやら通行人のようだ。

月明かりに照らされ、人の顔が見えた。男性だ。
どうやらここを通り抜けるつもりらしい。こちらに向かって歩いてくる。

ぞくり。

ミハイユの身体を、淫魔としての強い本能が駆け巡る。
無意識のうちに腰を震わせ、ごくりと喉を鳴らしていた。
口から小さく熱い息が溢れ、はっと正気に返る。

昔を思い出していた。
人間として育ったがゆえにその捕食行動に抵抗を持ち、人間の食事だけで食いつないでいた頃。
まだ、あの時ほど苦しくはない。我慢ができる。
何よりもあの時と違うのは、この捕食行動が何の意味も持たないという所。
命を食いつなぐため、という大義名分で自分をごまかせない所。

淫魔として生まれこそしたが、彼女はあくまで普通の少女だった。
潔癖で罪悪感を持ち、自分を律する人間だった。

欲望に任せ、その場の勢いで男性と関係を持ってしまうのは違うと思っていた。
彼女には、自分の偽善を満足させるに足る行動理由が必要だった。
下らない事と、自分でも思っていたが。
こういった感情に縛られないと、自分が何処までも堕落してしまう気がして。

それに、たとえそれが許せたとしても彼女には、ひとつの懸念があった。
小さなことだけど大きなことで。
その懸念は、大きな不便をもたらすという事を彼女は知っていた。

嗚呼。
けれど、何でこんな下らない事に躊躇しないといけないのだろう。
これにずっと耐えながら、何日も、何ヶ月も探索を続けて行くことができない事ぐらい、最初から判っているくせに。
どうせ、どこかで踏ん切りをつけないといけない。取り決めをしたところで必ず破綻するのだから。

私は人間と淫魔のハーフ。
子供を身籠れない身体だという事も知っているし、
病に侵されたりする事もない。この人とも会うのはこれっきり。裏通りなんて絶好の場所だ。

ぐるぐると頭を悩ませても時間は過ぎてゆく。
ミハイユは、色々な葛藤に押し潰され、ぐちゃぐちゃになっていた。
男性はとうとう横へ。足音がすぐ近くで。
心臓が跳ねる。
ミハイユとすれ違い、通りすぎてゆく。

一瞬、相手の匂いが鼻孔を擽る。
男の匂いだった。
本能に弾かれるようにミハイユは振り向き、男に声をかける。

声をかけるポーズのまま、ミハイユは今度こそ完全に硬直した。

吸血鬼と人間の混血児が子を為す事は、本来有り得ない。

ずっと思い描いてきた夢を。
子供を持ってみたいという、ささやかな願いを。

最悪のシチュエーション、最悪のタイミングで告げられた。

少女の時間は止まっても、世界の時間は止まららない。
はっと我に返ると、呆然とするミハイユを、振り向いた男は訝しむような顔で見つめていた。

消えるような細い声で、ミハイユは呟く。

そうだ。先ほどとは全く事情が違う。
すべてを慎重に考え直すべきだ。

少なくとも、気持ちを整理する時間が要る。その後どうするかを決めよう。
大丈夫。まだ少しは我慢できる。

男は無言で踵を返し、歩き去っていく。
足跡がザッ、ザッと聞こえ、背中が遠ざかっていった。

ぞわぞわぞわ、と。

引き金になったのは、寂寥感。
ミハイユの背中を、再び本能が蹂躙する。
今度はもっと強い欲望。焚きつける炎となって。
炎は一瞬で燃え上がり、全ての心を瞬く間に溶かす。
溶けた心は闇へと消えて、本能に支配された獣がそこに残った。

そうだ。

何を難しいことを考えていたんだろう。

人生は一期一会。

もう、この機会を逃したら、この人を味わう機会はない。

隅々まで味見して、

全てを潤して、

そうじゃないと、もう私は人の心を取り戻せない気がした。

だって私は、

淫魔なんだから。

ミハイユは常々、己を「被害者気取りの偽善者」と内心で卑下していた。
「買って」という言葉が咄嗟に口をついて出たのも、自分が故あって身売りをしているわけありの可哀想な少女だからだ、という悲劇のシナリオで自分を正当化したいがためで。

……けれど、彼女には一つ懸念があった。
小さなことだけど大きなことで。
その懸念は、大きな不便をもたらすという事を彼女は知っていた。

心臓が跳ねる。膝が震える。
死刑の宣告を待つような気持ちで。
目もろくに合わせられず。

男は静かに振り返り、ミハイユを軽蔑するような眼で一瞥する。
……そしてすぐに前へと視線を戻し、歩き去って行った。

そう、彼女の懸念とは。

やがて沈黙が訪れる。静かで、深い闇の世界。
そこにはただ一人、三つ編みの少女だけが取り残されていた。

前に回られ近づかれると、少女は身をすくませて足を止めます。

話しかけれれると、観念したように顔をあげます。
少し、しどろもどろに返事しました。

じわり、と距離をとりながら、じっと見ています。

慌てて目をそらしました。

獲物のあまりにも無防備な様子に驚いたのだろうか、目を僅かに見開いて
正面を見据えている。
動きが止まるどころか、それを苦痛とも思っていなさそうな彼女の様子を認めると
動揺した様子でもう一度銃を構え直した。

確かに弾は命中している。
念を押すように、残りの一発を撃つべく引き金を引いた。

眼鏡と三つ編みの娘の元にに、40cmほどの大きさの人形がとても軽い足音立てながら走ってくる。

スカートを持ち上げて一礼。
笑顔を向けた後に、踊るようにしてくるりと背後へと回り込む。


遅れてやってきたのは、身長は170前後、青髪の耳長。