夜の帳が降りた頃。皆はもう寝静まっているのであろう（もしくは、起きていることを悟られないように静かに行動を起こしている）静寂につつまれた空気が辺りには漂っていた。日中はそれぞれの声や気配が個人に与えられた部屋でさえ感じ取れるが、こうも違ってはまるで違う世界に居るかのような錯覚さえ感じる。
ユーグとツグミはその静かな空気に包まれるように、あるいはお互いの身を守るかのように寄り添ってベッドに横たわっていた。
広い胸板に顔を埋めるような形で、暑いとも息苦しいとも何一つ言葉を発することなくツグミはユーグの腕に抱かれていた。
ツグミが錯乱したその日は、決まってこうして眠るのが二人の暗黙の了解だった。そこには一切の他意はなく、ただ寄り添って眠るだけを良しとしていた。
誰かの腕の中で眠り、また誰かの腕の中で目覚める。母親を回顧するような行動は、二人に一定の安らぎを齎していた。

何故ツグミが我を忘れて叫び声をあげるのか、ユーグは薄らではあるが察しがついていた。その理由になりえるものを、ユーグは論文という研究成果の形で目にしていたことがあったからだ。そもそも彼が能力者になってからずっと、彼は自身の力がどのようなものであるかに感心を持っていた。知ることで自身の力をより良い効率で使うことが出来ると考えてのことだった。
その論文は能力者を調べ上げることに熱を入れている（そして、非人道的な行為をすることに何の罪悪感も持っていない）忌々しい科学者の研究に基づき執筆されたものであったが、強く印象に残っているのだった。
曰く、『能力者は能力が開花すると同時に、精神に何らかの影響を受ける』というものだった。
非人道的な研究結果は読むに堪えなかったが、結論は——話半分ではあったが、少なくとも記憶に残る程度には彼を刺激した。

『——すなわち、精神の高揚、欠損、感情の増幅などありとあらゆる事象が起きる可能性が秘められており、それらの精神に起因する行動を阻害した際には精神が一時的に崩壊、錯乱するに至ると考えられる。それを引き起こすことで能力者の——……捕獲——今後の研究に……——』

価値のある論文だったかもしれないが、話半分で聞かざるを得ない確信がユーグにはあった。
何故なら、彼自身が今まで精神に何らかの異常を感じたことが一度もなかったからだった。精神の異常から感情の暴発に至るまで、今までに一度も。
自分は当てはまらない。
ユーグは常にそう考えていた。


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「ツグミ」
腕の中に居るツグミを呼ぶと、頭を動かして反応することが分かった。
今回は今までよりもずっと早くに心が落ち着いた様子だった。いつもならば理由を聞き出すのにたっぷりと時間をかけなければ、中々言葉を発してはくれない。
抱きしめる腕の力を少し弱めれば、頭を上げてこちらを見つめる美しい茶色の瞳が見える。
表情こそいつもと変わらない無表情のそれだったが、その瞳には高揚が微かに見て取れた。まだ完全には落ち着いていないようだ。小波が打ち寄せるような、静かな感情の揺れを感じる。
私はその瞳に、ツグミとのやり取りを思い出していた。

——何を思ったんだい。……悲しかったのか。怖かったのか……
——……………………うれしい……？

（嬉しい、だって）
その場で口にした正直な感想を反芻する。
嬉しい——何が、何に対して？　ツグミの言葉は常に単語として拾われ、私はその意味を類推することで会話が成立する。その一言は先の会話の直接的な答えにはなっていたものの、その過程に至る補足がすっかりと抜け落ちていた。
そのあとに弱弱しく紡がれた単語。——エンブリオ。この世界を構成する要素のひとつ。生命力を糧に力を借りることのできる存在。
勿論、この世界に訪れた際に知識は得たものの、目に見えてその恩恵をうけたことはなかった。
あの時、ツグミに触れたとき、一瞬だけその姿を認識できた純白の小鳥。
あれがかのエンブリオだとしたら。
（一体、なんだというのだ）
エンブリオという存在を受け入れることは私にはそう容易いことではなかった。私はいつも自分の力を一番に信用していた。勿論目に見えないもの程信用は低くなる。今のままでも十分に戦えており、補強するにも不確定な要素を取り入れることを私は嫌った。

自分の力があれば、少なくともツグミを守ることはできる。

それだけで十分であったし、それ以上を望むこともなかった。常に傍に置いている以上、私がツグミを一番に守れることは決定的だった。エンブリオが何の助けになろう？
私が心の中でエンブリオの存在を否定すればする程、ツグミの瞳の奥底に見て取れる高揚の感情が私の胸を刺激した。恐怖でもない、拒絶でもない、その感情が一切見受けられない瞳の熱。その原因をたずねることを私は酷く恐れた。
あの輝きを、あの光の結集とでもいうべき物体をツグミは受け入れたというのか。
不確かな存在のあの小鳥を。

感情に暗い澱が溜まっていくような感覚を覚え、私は眩暈すら感じた。
鳥籠の鍵が壊れ、上手くかけられなくなってしまった時、あの時と同じどんよりとした暗い感情。
大事に握りしめていた私の両手から、愛しいものがすり抜け、掠め取られ、零れ落ちていくのはもう沢山だ。
腕の中のツグミに顔を寄せ、その首筋に顔を埋めた。いつもと変わらない柔らかい髪が肌に当たる感触は私の感情をさらに逆撫でにした。
変わらずとも良い、受け入れずとも良い。ただ、私の傍に置いておくことができればそれでいい。
腕に入る力が強くなる。一瞬ツグミの体がびくりと反応したが、全てを受け入れるように弛緩した。
「ツグミ」
「………………………………」
自身が発した声は、ひどく熱に浮かされていて、それでいて優しく——狂気さえ孕んでいるように聞こえた。
「私の傍から離れないでくれ。……私の、そばから」
耳元で一つ、願いを囁く。
ツグミの白い手が私のシャツを握る感触がした。

その口からは、言葉が紡がれることはなかった。

珍しく、ぶつぶつと呟いて頭の中で考えをまとめているらしい。……出口は見えないようだ。

物思いにふけっていたようで、歩みに間に合わせるべく適当なものを拾っている