「…………」

また、手紙が届いた。
最近はずいぶん頻度が上がっている気がする。
内容は——変わらない。
"今はどの辺りにいる"　"王には会えそうか"　"情勢はどうか"
そして——　"とにかく一度帰って来い"

「…………………」

手紙から視線を上げる。果てがないと思えるほどに続いている廊下。
ここを進んでいれば、王の下へとたどり着けるのだろうか。
そのためには、後どれだけ歩けば良いのだろうか。

「…………」

実際こうして歩いている己でさえ、不安はよぎる。
そこから目を逸らすかのように、遊びに遠出をしてみたり、思いがけない場所へと訪れてみたり——していた、わけだけれど。
何も分からず、ただ待つばかりの身ならばどれほどだろう。

「……いちど。戻った方が…良いのかしら〜」

ぽつりと思考が唇からこぼれた。
だが。

「………………」

前を行く背を見やる。
まだ、彼にそれを提案するには迷いがある。
先日故郷のごはんの話をしたばかりだ。
きっと嫌な顔ひとつせず、受け入れてくれるだろうとは思うけれど。
それに甘えてしまって良いのかと——そう、思う気持ちもある。

決めきれないままスリッパを鳴らして、彼の背を追った。

彼女の足元の靴へと視線を落としてから、顔を上げ。
ぶつけた額を撫でる様子を首傾ぎつつに見遣った。何でも無いなら、安心だ。

指摘されて漸く気付いたように、双眸が己が腕を捉える。
いつ引っ掻かれたのか、前腕に幾つか血の滲む怪我があった。
人と比べると如何にも痛覚が鈍い身体だから、いつだって彼女と、彼女と共にある精霊が気付いてくれる。

袖の解れた箇所を彼女の方に差し出して、インク瓶から飛び出す光を見つめる。
そのペン先を彩るインクの色は様々だ。たとえばエユプであったり、セーナであったり——
或いは男の影の中や指輪に潜む色たちもそうだ、随分と増えてしまっていた。

紡がれるであろう呪文の声音を心地よく思いながら、口端が弧を描く。

相手の様子に、ああ、と声を漏らして軽く首を横に振る。

彼女が男の為にと必死に手段を模索してくれている事は、その表情から察せられた。
確かに今、己が記憶の果てに置き去りにしてきたものを得る手段は、限りなく少ない。
けれどもそれは“今だから”で、彼女の言うように、細い糸も辿れば待つものがある。
男には到底思い至らなかった“そういうやり方”を教えてもらえただけで、それだけで、
十分に前に進んだ気になれるのだから、笑えるほど男は単純だった。

喉を鳴らして笑ってみせてから、こちらを見る視線に首を傾げる。
約束は守るもの。確かにその通り。

本屋に並ぶいくつものおとぎ話にしたって、
約束を守らない登場人物は大抵の場合ひどい目に遭ったりしたものだ。
“物語”としては、男が交わした約束もあいてもイレギュラーなものだろう。
だからこそ、どんな影響を及ぼすか解らない——彼女の言葉は尤もな話だった。

おかしげに喉鳴らして、大丈夫だろ、と根拠もなく言い切る。
そう言葉にすることで確かなものになって欲しいと、そんな願いを込めながら。

彼女の村に伝わる伝承には、何処か真剣な顔をしながら耳を傾け。
話のところどころ、顎に触れたり思案げに双眸を伏せたりと、僅かな動きを見せた。
層になった世界。泥の中の世界。辿り着いた先の、葉っぱの上の世界。
彼女の先祖が切り拓いて見付けだした、トート村という故郷。

その話を忘れぬようにと頭の片隅に貼り付けながら、
おとぎ話でも語るような彼女の口振りに、なるほど、と小さく笑った。

冗談交じりにそう言って肩を揺らし、内緒な、と己が唇に人差し指を添える。
視界の先には、魔王パラダイスが籠城しているのだろう王城が見えた。
彼女の歩調に合わせて、のんびりと男も歩き出す。

不意に、彼女の歳を問う言葉に双眸が丸くなる。

見た目には、若い。けれども彼女は獣人だ。
そうと問うと言うコトは、案外、それなりに年を召しているのだろうか。
男とて外見こそ二十代と言われるが、中身は三桁余裕であるのだからして。

歌うように呟いて、羽根ペンを持った右手を伸べる。
羽根ペンに宿った光のひとつが飛び出して、くるくると回り始めた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。
回るたび、辺りの温度が下がっていく。
吐く息が白くなる。ちらちらと、白いものが落ちてくる。
星まで凍らせるような冷たい風が、サッと下から上へと吹き上げた。
目を開けると、いつから立っていたのだろう。
そこには、白い肌、赤い反物を携えた女がいた。