——景色は移り変わる。青空は、全てを橙に染め上げる夕暮れの色に。


*****


「ミハウ！」


見慣れた街並み。通りを歩いていた僕にかけられたのは、明るい、よく通る声。
振り返った先には、『彼』が居て。着崩された自警団の、緋色の制服に、腰のベルトには得物の剣が一振り。
彼が片手に持っていた紙袋に、思わず、あ、と声を漏らせば、呆れたように溜息が一つ。


「忘れもんだぞー、ほれ」
「わ！？」


ぽい、と放られたそれを慌てて受け取る。少し重みのある、四角いもの。
中身は、本だ。貸してもらう約束を、僕はうっかり忘れていて。


「貸してくれって、自分から言っといて忘れるか、普通？」
「はは、いや、あの……終礼の時までは、覚えてたんだけど……ごめん」
「……お前ってしっかりしてるように見えて、こういうとこ、本っ当抜けてんだもんなあ」
「た、たまたまだよ」
「そのたまたま、が年に何回あんのかねー、なあ相棒？」
「う……」


言葉に詰まった僕に、しゃあないな、と呟いて、『彼』は笑う。
ああ、いつもそうだった。
僕が何か間違ってしまった時、怒ったり呆れたりはしたけれど、最後はいつもそう言って、許してくれた。


「んじゃ、気ぃつけて帰れよ」


ひら、と右手を振って、『彼』が背を向ける。その動作で、剣帯の鎖がかすかに鳴る。
長剣の柄頭に置かれた手も、少しだるそうな癖のある歩き方も、覚えているままで。
思わず、手を伸ばして、呼びかけた。


「イェジ」


その背中を守りたいと思っていた、人。


*****


——景色は移り変わる。暖かな橙色は、黒一色に。


*****


何も、見えなかった。
ここは、どこだろう。
目をこらしても耳を澄ましても、何も見えないし聞こえない。
ただ、地面、というか、床というか、その感触だけは、あった。
夜の暗がりでも、もう少し周囲が見えるはずだ。
ただの暗闇ではないようだったけれど、こんな風景は、見た事がなかった。

そっと、一歩、踏み出してみる。しっかりとした地面の感触が返る。
また一歩。更に一歩。
地面は、続いているようだった。

今度は、歩いてみる。歩いているのに、足音は返らない。
かすかな、靴底が（見えないけれど、靴を履いているのと同じ感覚がするから多分）地面に擦れる音さえ聞こえないのは、異常だ。
こんな状況自体、夢だという証だろう。現実に起こっていることとは思えない。
でも、そう思ったけれど、この夢から目を覚ますにはどうしたらいいかは、分からなかった。
歩いていれば、何か変わるかもしれない。動かないよりは、きっと。
足を前に進める。
どこへ行くかなんて、分からなかった。


*****


——景色は変わらない。黒一色のまま。


*****


エクラタンは、もうそろそろ、秋祭りが行われている頃だろう。
街中を花飾りで飾って、道沿いには鉢植えを並べて。
色とりどりのリボンやテープをあちこちに結んで、皆揃って、明るい色の衣装で着飾る。
ローズジャム入りのドーナツに、赤カブを使ったバルシチ、具沢山の野菜煮込み、チーズと胡椒を利かせたパルシュキ、たっぷりの果物を使ったパイに、クレープ。
祭りにつき物の料理は、いつも市場や食堂の人達が腕を振るっていた。
小さい時は、母さんの手伝いをして、ドーナツをご褒美にもらえるのが嬉しかったっけ。
甘くて、でも、しつこくない。とても美味しくて、何個だって食べれるんじゃないかって思ったくらいには。
食べながら、広場でやってきた大道芸を眺めるのが、すごく好きだった。
自警団に入ってからは、見回りや取締りなんかでちゃんと参加した記憶はない。
けれど、それでも、休憩時間に屋台を回ったり、催し物を少しだけ見たり。ちょっとずつは、楽しめていて。

復興がどれくらい進んでいるかはわからないけれど、例年通り、賑やかで楽しい祭りになっていたら、いいな。


——そんなことを、とりとめもなく考えながら、どれくらい歩いたのだろう。

歩いても、歩いても、歩いても。
何も見えないし、聞こえないまま。何も変わらないままだ。

歩くのをやめようか。何度か、そう思った。
でも、立ち止まったとしても、きっと何も変わらない。
そんな気がして、結局、ずっと歩き続けていた。

いつまで、続くんだろうか。この暗闇も、この夢も。
どれくらい時間が経ったのかは分からないけれど、あまり長く寝ていたら、きっと心配を掛ける。
何処かへ行き着くか、それか、目が覚めるか。どちらの結果でもいい。
ただ、ただ今は、この闇から、早く抜けたかった。


暫く、また歩いて。


不意に、ぼんやりと、遠くが色づいているのに気付いた。
久しぶりに、色を見たような気がして。そのことに、少しだけ、ほっとして。
そこへ向かって、駆け出す。ずっと歩いていたというのに、身体は少しも疲れていない。足運びも軽いものだ。


近づいていく、その場所に、やがて見えてきたのは。


血のように紅い花、だった。
一輪だけ、ぽつりと咲いたそれ。

ネクターに似ているけれど、ほんのりと、柔らかな光を纏っている。
ネクターは契約の花。特別な花ではあるけれど、光ったりはしない。


そっと、手を伸ばす。
そして、指先が、その茎に、触れたか、否か。


風の唸りが、耳をかすめた。
水面に落とした雫が、波紋を作るように、朱が、赤が、紅が、広がっていく。
暗闇を、喰らい尽くすように、あっという間に、埋め尽くしていく紅い花。

一呼吸の間に、世界は、一変していた。


大地だけでなく、本来なら空がある場所までも、紅い花に埋め尽くされた、世界。


その異様さに、思わず一歩後ずさる。足に、花を踏みつけた感触が返る。
足元を見れば、さっきまで見えなかった足も、花に埋もれるようにあった。
目の前に翳した手や、腕や、身体も、纏う服も、首筋に触れる編んだ髪の感触も、視線の高さも、いつもの通りで。


それは、



開かれた目、置き去られた小箱、枯れた花、誰かの腕、行き交う人々、葬列、白い欠片、怒号、血溜まり、淡い花々、砕けた剣、光を失うカンテラ、悲鳴、煌々と灯る夜景の明かり、嘆き、灰色の壁、西日に照らされた街、飾られた祭壇、青い月夜、燃え盛る炎、霞む風景、煙雨、砕けた破片、優しい手のひら、ささめくような笑い声、血を垂れ流す傷口、軽やかな笛の音、雑踏、横たわる体、


夜闇を裂く朝日、そして。



——“花”の、養い子、




「っ！」


身体を起こす。差し込んだ光の強さに、慌てて目を閉じる。
恐る恐る目を開けば、テントの隙間から光が差し込んでいた。手を伸ばして、入り口の布を捲る。
晴れた空に、聞こえてきたのは小鳥の声。ひんやりと冷えた空気に、少しの間、目を瞬かせて
、は、と我に帰る。


朝、だ。

ミハウさんの光るエンブリオにしばらくそうやって囀りかけてみた。
心なしか、光の明滅があるような気がする。

ミハウさんがなにやら寂しそうにしているのを見てか、スズメはスズメなりに、励まそうとしているようだ。
・・・まあ、若干伝わりにくい感は否めないが。

だから、と。

　もちろん、自分で試食はした。
　食べられる味ではあったが、おいしいとは程遠かった気がする。彼がいつも振る舞ってくれる料理のおいしさと比べたら、余計に。
　なので渋い顔をしたまま、訝しげにそう訊いた。

　差し出された袋を見て、目を丸くした。
　微かな、スミレの匂い。
　何となく、彼らしいなと思う。
　そう思いながら袋を受け取った。

　丁寧な作りではあるが、既製品には見えないそれをまじまじと見遣り、神妙な顔してそう尋ねた。あまり彼がこのようなものを作る印象は無い。

ものすごい勢いで汗を流しながら目を彷徨わせつつそう言う。

急に顔を上げて何かを思いついた顔をすると、分かりやすいくらい大げさにそう言い出す。

一歩、前へ進み出る。
深呼吸をひとつ、武器を構えると、敵を真っ直ぐ見据えた。