私はその夜、毎週のごとく旦那様に呼び出されていた。震える喉から搾り出された吐息が、薄明りに照らされた静寂の中に吸い込まれていく。薄い扉一枚で閉じられた部屋はお家付きの従者である私の仕事場で、旦那様に身を捧げることもまた、ゼペット家に一族を保護されているシャット＝ブランシュの血筋の仕事だった。
　私に身を寄せながら、旦那様は仰る。「明日、イリスに御付きの者を選ばせる」私は過去に二度ほど、同じように旦那様の娘達に御付きの候補としてお目通しを受けている。誰のもとにもついていない数人の従者を並べて立たせ、将来のゼペット家の主を助けさせる者を選ぶのだ。旦那様は末娘にもそれをさせるという。
「お言葉ですが、他の者に任せてしまえばよいのでは」「選ばれる権利を奪うのは本意ではないだろう」
　選ばれるはずがない——旦那様はそれを承知で私を立たせていらっしゃるのだろう、私はそう考えていた。見透かしているような言葉。旦那様のシャット＝ブランシュの血筋との付き合いは、私がこれまで生きてきた歳月よりも長い。言葉を失った私の背筋を、旦那様の指がなぞりあげる。首の裏側をむずがゆさが走ったが、それは肌からきたものだけではなかった。
「申し訳ないが、理解してくれ」赦してくれとは仰らなかった。私も答えず、旦那様の背に腕を回してベッドへと背中から倒れ込んだ。

　旦那様の御付きに言われ、廊下で待機することになる。案内された廊下は室内に負けず劣らずの整えられた内装で、この家の富祐であることを静かに主張していた。窓からは蒸気の煙にまかれた控え目な日の光が注いでいて、明かりのないカンテラや白を基調とした壁紙を照らしている。どちらも豪奢なとまではいかないが、施された意匠は瀟灑であるといえた。くすんだ日に照らされているだけでもその姿が鮮明に浮かび上がるのは、従者達が毎日丁寧に手入れを施している証だ。
　呼ばれたら出てくるようにとの命を受けて、誰に見られているでもないのに居住まいを正した。選ばれるわけはないと思っていても、どうやら私は緊張しているらしかった。
　従者は他に三人いた。言葉少なに簡単な挨拶を交わすと、三人ともが私から視線を切る。男が二人と女が一人。一人は若く、二人は妙齢で、いかにも饒舌そうな者、温和そうな者、そして厳格そうな者。それぞれ印象は異なるものの、三人ともが私よりもずっと人間じみていて、またそこでは誰もが無口だった。
　沈黙が場を支配したまま時が流れる。言葉の生まれない停滞は心地よいわけではなかったが、これでも"外"に出るよりはずっとまともな扱いであると言えた。彼らの様子を眺め続けていれば退屈はしなかった。誰もがお互いに視線すら交わさず、まるで装飾品のようにそこに佇んでいることが仕事であるかのようですらあった。もたらされた閑はこの亞人の小娘の存在によるものなのだと思うと、仰ぎ見た表情もどこか忌々しげにも見えた。
　そう見えたのもただの気のせいで、卑屈が過ぎるとはわかってはいたが。亞人アリストクラットの心に、いつか見た蒸気の国の現実が残した、残酷なまでに深い爪痕だった。

　部屋へと繋がる扉が開かれ、室内へと招かれた。促されるままに従者達は部屋へと入っていく。前の者に隠れるようにしながら、私は最後に続いた。
　部屋には旦那様とイリスお嬢様、旦那様の御付き、そして今部屋へと入った四人だけだった。開けた室内は、大きな窓から差し込む光のおかげで、灯りの半分をカンテラに頼る廊下よりもずっと明るかった。あらゆる場面で蒸気を用いる国ゆえ、外気を拒むためにガラスで隔てられてこそあれど、ごく小規模な公園を模した庭へと続くつくりは開放感を感じさせる。旦那様とお嬢様が囲んだテーブルの上で、まだ中身の残るティーカップが芳しい香りを立てていた。初めて会うお嬢様は上の二人よりもなお小さく、儚いように思われた。実のところは私の背が多少なりとも伸びていただけではあったが、整った目鼻立ち、開かれた碧眼は、それを差し引いてなお人形のような可憐さを感じさせるほどのものだった。
　四人の従者が整然と並んだ。お嬢様が小さな声を漏らしてこちらを見上げる。このゼペットの屋敷に亞人はごく僅かしかいない。その一人である私は旦那様に囲われて生きてきた。異質な存在にお嬢様が驚かれるのも仕方のないことだ。
「イリス。これからお前に、今後お前の世話をする従者を選んでもらう。彼ら四人の中から、一人選びなさい」
　上の二人へしたものと同じ問いを、旦那様が繰り返される。私は瞳を閉じた。すぐに他の誰かが選ばれて、私は再び旦那様のもとで閉じた日常を送るのだ。吹きすぎる風をやり過ごすように、お嬢様の声が空気を震わせるのを待った。
「お父様。……この人がいいわ」
　横に並ぶ従者たちが息を呑む気配。言葉はなかったが、隣の従者から視線を感じた。落としていた瞼を上げる。開けた視界に、旦那様へと向き直るお嬢様の姿があった。

それでも血の香りは濃厚で、鼻につく。応急手当しかしていないのだろう。

治療に専念するだけの時間を確保できなかったのかもしれない。

その事情はイリスにもよくわかる。自分もそうだったから。

だが自分も人斬りに出会ったのだとは、口にはしなかった。

なんの後遺症もない出来事をいたずらに明かして、これ以上アリスの心を疲弊させたくなかったからだ。