害意、というものがある。敵意に近いものであるが、ただ立場を分つだけのそれとは違い、明確に相手へと何かしらの影響を与えんとする意思だ。
　このメルンテーゼへと降り立ってからこちら、実のところアリストクラットはそのどちらに晒されることもほとんどなかった。叛乱先の兵などには明確に敵意を向けられたが、それだけだ。
　あの蒸気の国で晒され続けた敵意からすれば、今いる環境はおよそ解放的そのものであるといえる。この世界には人ならざる人も数多くいれば、野へ放たれたものどもへと目を向ければ亞人を労働力の主とした国の住民から見ても変わった生物で溢れてすらいる。そんな常識の中にあるのだ、好奇の目で見られることこそあれど、少なくとも敵意や蔑みの目線を投げかけられることはほとんどないと言っていい。
　あるいは、それゆえに鈍ってしまっていたのかもしれない。さほどの日数を過ごしたわけではないはずだったが、それでもあの蒸気の国で19年を生きてきたアリスにとって、亞人という枷の外れた日々は新鮮そのものであった。好奇心を満たす愉悦は麻薬ともいえる快楽。それは知らずのうちにアリスの思考を浸し、毒のように意識を侵していた。
　結果が眼前の、刃を血に染める者どもである。致命的なまでに害意の察知が遅れてしまった。叛乱が起こっているのだ、掠奪者のことを考えなかったわけではない。しかし警戒を怠ったのは事実だった。

　全身が痛む。乱暴に掠奪行為を行われたせいで、あちらこちらに大小の怪我もあるようだ。
　うつぶせだった身体を木にもたれさせ、呼吸のスパンを少しずつ長くしていく。ひどく熱い部位がある。触れるとぬるりと手指に何かがまとわりついた。視線を落とせば、果たして白い細指は紅に染まっていた。
　情けない——。誰に告げたいでもなく、ただ心の中でひとりごちる。自分の刃はこんなにも鈍かっただろうか。あまりのふがいなさに、失笑すら出てこない。状況は絶望的でもなんでもないが、こんな状態で主人の傍にいるだなんて、シャット＝ブランシュの一族を拾ってくれたゼペット家に、”飼い猫”を捨てずにいてくれた旦那様に、何より自分を選んでくれたご主人様に申し訳が立たない。
　噛み締めた歯が、ぎりりと音を立てる。豊かな毛に覆われた尻尾が、スカートの中で不機嫌そうにのたうった。

無言で相手を睨み付ける。

手中に爪を隠し、何事もなかったかのように手指を払う。