<父の死>

　凍土から研ぎ出したように澄んだ月が昇っていた。戸を開け放ち、冬の冷たい夜気を部屋に入れる。春から海に潜れるほど暖かな少華村も、冬になれば、それなりに冷える。部屋で眠るシュシュリの父の身体は、部屋に吹く風よりなお冷たくなっていた。眠っているように安らかな顔だ。だが、もう二度と目を覚ますことはあるまい。
　父の側には、紺碧の瞳と鱗の蛇が寝そべっている。父と長年連れ添ったエンブリオは、物言わぬ父をじっと眺めている。この蛇は、今まで幾度も人の死を見てきただろう。それで、今、どのように感じているだろうか。蛇と話したことはなかった。話さないエンブリオだと思い込んでいたから、話せるかどうか、父に聞いたこともない。父の遺骸は、明日、海に流す。蛇は、どうするだろうか。
　十八になるシュシュリの胸に、ふと、去来したのは、納得だった。人は死ぬということだ。まだ五十前だった父が、疲れ果てるようにして死んだのは、間違いなく多数のエンブリオと契約していたからだ。だから、自分も恐らくは、父と同じように、やがて力の果てを感じて絶えていくだろう。村を守るために、エンブリオ達の力は必須なのだ。身近に死を感じると同時にやってきたのは、情欲だった。シュシュリは、近くの親しい男の家を訪うと、言葉もろくにかわさず、男を押し倒した。交合が激しいものだったかどうかは、思い出せない。だが、いつの間にか、眠っていた。朝日を浴びながら家に戻ると、父の遺骸と蛇は、そのままだった。
「お前、どうする」
　シュシュリは蛇に尋ねた。何を尋ねたのかも定かではない、曖昧な言葉で。蛇は無邪気な瞳をしたまま、ちろちろと細い舌を出し入れしている。
「父を海に流す。来るか」
　蛇は、何も言わずに海に向かって進み始めた。肯定と取ったシュシュリは、父を板の上に乗せた。いつの間にか海棠が現れていて、板の反対側についている棒を持っている。
「秋嵐、あの子、泣いてるよ」
「蛇のことか。分かるのか」
「何となくだけど。秋嵐もね」
　泣いてはいない、という言葉は出てこなかった。だが、涙は出ていない。シュシュリと海棠は、板に乗せられた父を海に運んだ。蛇は、父の到着を待っていた。シュシュリの足をよじ登って板に登り、父の遺骸の上でとぐろを巻いた。
「このまま流して、って」
　海棠の言葉通り、板を海の上に浮かべた。遺骸も蛇も、すぐに遠くなった。見えなくなるまで見送った。少華村に生まれた父は、死んだら海に流してくれと言っていた。これで、父の最後の望みを果たした。
「秋嵐、泣いてるよ」
　シュシュリの頬を一条の涙が伝っていた。今度は、本当に泣いていた。顔の左半分にある歪な傷と同じ軌道で伝う涙を拭うと、大きく息を吐いた。
「そうだな。すぐには悲しくならないらしい」
「昨日は男に甘えてたみたいだしね」
「甘えていたのか。そうか、確かにな」
「私が男の身体だったら慰めてあげたのにね」
「お前には、甘えたくないと思っている」
　海棠は、後ろからシュシュリの身体に寄り添っていた。海棠はエンブリオだ。シュシュリは、海棠との契約を破棄するつもりはない。例え、海棠と契約しているせいで、明日死ぬことになろうとも。シュシュリが死ぬときは、海棠が看取ってくれる。死ぬのが怖いとしたら、それは、遺された者を思うからだろうか。だが、父は、シュシュリを置いて死んだにも関わらず、安らかだった。
「海棠、泳ぐか」
「うん。でも、冷たいよ」
「冷たければ、冷たいほどいい」
　海の中は、安らかだ。父は、陸よりずっと安らかに眠れるだろう。
　生きること、死ぬこと。二つのことが、シュシュリの中で夏の海のように荒れ狂っていた。シュシュリは、海の中で、思うさま泣いた。声を上げた。海棠は、そんなシュシュリに従って、いつまでも泳いでいた。