ENo.9 ツィエルアーシャ・エロ＝サヴァーレン

ヒトの営みというものはどの世界でも変わらないらしい。
このアンジニティ、タルタスの街でもそれは感じる。

バレンタインデーのムードだ。

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「台所を借りたい？」

我ながらすっとんきょうな声を上げてしまった。
場所は私の部屋、言い出したのはジュコに抱きつかれたエミルだ。

「は、はいっ…だめ、です、か…？」
「いや、駄目ではないけど…」
「だいじょーぶだよツィーエ！私がちゃんと火のばんするから！」

能天気にジュコが言いエミルに頬擦りする。
ジュコは数万年だか生きた狐で、日々の食事だって作ってるから特に心配してないのだが。

「…………」

両手を祈るように組み、見上げてくるエミル。
私が心配しているのは火傷でも火事でもない。エミルの中の何かだ。

忘れはしない。簡単なゴーレムを作ろうとして起きたあの出来事を。

エミルの流血、出血がトリガーかと思っているのだが確証はない。
何せ毎日原生生物と戦っていて多少なりとも切り傷擦り傷を作っているからだ。

「わかった。くれぐれも火と包丁に気を付けることだけは忘れないで」
「ありがとうございますっ！　あっ、あのっ」
「ん？」
「それで、なんですけど、その、あぁあああ、あう」

言いたいことがあるのに言ってはいけない（と思い込んでいる）ときの吃り方。
言おうか言うまいか、でも言わないといけないという葛藤が青い瞳に浮かんでいる。

「？どした」
「立ち入りきんし！だよね、エミルー」
「なんだ、そういうことか。わかったわかった」

軽く頭を撫でてやればホッとしたように力が抜ける。
そもそも好きで台所に立ち入るほど料理好きでもないし、何よりめんどくさい。
ついでに言うなら子供の邪魔をするほど無粋でもない。

「それじゃ私は外をぶらついてこようかな。じゃあね」
「いってらっしゃい、ツィエルさんっ」
「いーってらーっしゃぁーい！」

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高価な菓子を売る店がやけに多い。
何はなくとも食糧が高価なのがアンジニティである。
砂糖だなんだを使ううちに目玉が飛び出る価格になるのだろう。

当たり前というべきか、菓子にはケースが被せられ荒れた風と砂から守られていた。
他の物からしたら破格の扱いである。

「しかしまぁチョコレートが多いことで」

思わず呟くレベルで焼き菓子だろうと冷菓だろうとチョコらしきものが使われている。
バレンタインデーというのは、私が調べた限りだとチョコレートに関連してはいなかったと思うのだが。

強いて言えば花束を贈る祭りだった気がする。感謝の気持ちでもいいけど。
でもチョコレートを贈る世界は確かに多い、と記憶を反芻しながら思った。

「…………チョコ、ねぇ」

アンジニティにも健全な青少年がいるらしい。
多少身なりの良い―この世界にしては、だが―少女たちが露店に群がる。
場所が場所、シンの命名によれば『強者街』だからある意味当然かもしれないが。

手にPSや貴金属を握りしめて色とりどりのお菓子を眺める彼女たちは。
やはりその手に同じぶんだけの品を持てる男を探しているのだろうか。

（なんでこんなに物騒なもんかな）

露店の主もこの世界と貧富の差に慣れきっている。
少女たちと露店の主と。それぞれのガードマンが目を光らせているのだ。

騙す者と騙される者と。知恵比べに力比べ。
殺気に挟まれて居心地は大変よろしくない。
善は急げだ。さっさとこの場から逃げよう。

（……、私も、作ろうかな）

少し進んだだけですぐに街は顔を変える。
極彩色を塗りたくった仮面から泥と垢にまみれた素顔へ。

強者街と貧民街の狭間で魔女は忽然と消えた。

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「下準備はこんなもんかな？」

飛んだ場所は『部屋』の奥まった場所。普段は使わない厨房だった。
大理石のテーブルには3つの巨大なボウルが置いてある。

●プレーンチョコレート
カカオペースト＋カカオバター＋砂糖

●ミルクチョコレート
カカオペースト＋カカオバター＋砂糖＋ミルク

●ホワイトチョコレート
カカオバター＋砂糖＋ミルク

用意した三種のチョコは美味しくできた。と思う。
豆を栽培し、ブレンドし、圧縮から時間操作、熱操作まで自分でして作った。

（文句ない手作りだ、うん。ここまで手間かけたものはあげる人を選びたいね）

世の中には溶かして混ぜて固めたくらいで手作りと威張るなとほざく奴も居るが…
ここまで手間暇かけて作ったものを軽く手渡せる者は居るんだろうか。
受け取って、同等の労力を惜しまず使った品を返せる者は居るんだろうか。

つらつらと考えながら、とりあえず半分はプレーンで固める。
丸とかハートとかそれっぽくしておけばいいだろう。
二色にするのは半分ずつ入れればいいのか？適当にやってしまえ。

「あとは生チョコでいいかな…ケーキは失敗したらやだな…」

ごそごそと生クリームと蜂蜜を引っ張り出す。
これを混ぜて固めれば柔らかくて美味しいあれが出来るんだそうだ。
ココアの上で転がすことの意義はよく解らない。

生クリームに蜂蜜を加え鍋で沸騰させ、すぐに火を止めてプレーンチョコを流し込む。
滑らかになるまで静かに混ぜ、今度はオーブンシートをひいたバットに流し込んだ。

液状チョコは液体だ。水霊術で操作して平らにしてから温度を抜いていく。
みるみるうちに固まるチョコ。しっかり固まったのを確認する。
包丁をぬるま湯に浸し、布巾で拭って水気をとった。

「うぅぅうううぅぅぅぅぅ……」

最も苦手な作業、切り分けに手が震えた。
魔法で切ってしまえばいいのだが、それだと手作りと言うには憚られる気がして。
震える手を抑え努めて冷静にふんわりさっくり切り分けていく。

斜めになってはいない代わりに大きさがちぐはぐな生チョコができあがった。

がくりと肩を落とし、いやいや不揃いだけならいいかと開き直る。
ココアパウダーを広げてその上に落とした。慎重に、手の温度を下げて、コロコロ…

違和感。

何か温かいものが体に触れている。
背中に、二の腕に、胸に、腕に。

（旨そうだな）

耳元に吹き掛けられるような声。
ここには私しか居ない。居ない、のに、その声が妄想じゃないのは判る。

「…あんたはなんでこんな時に！」
（ンだよ、寂しそうだから来てやったっつーのに）
「嘘つけ！って、うわ、何を」
（手作りか。私にも一口食わせろよ）
「あ、ちょっと」

胸がふわりと沈む感覚。ちょうど後ろから誰かに抱きつかれ、その腕に押し潰されたように。
右腕を掴まれたような気がしたかと思えば私の支配下から離れた。

さっきよりもずっと慣れた手つきで生チョコを転がす右手。
そこはかとなくショックを受けていると低く笑う声がした。

（料理が下手かろうが死にやしねぇよ。ほら口開けろ）
「うるぁぁぁ…」

罵倒は言葉にならない呻きに変わる。ココアパウダーにまみれ、チョコを摘んだ指先。
素直に開いた唇から、待ちきれないように舌が伸びる。

チョコを載せられた舌は蛇のように指に絡み付いた。ココアパウダーを軽く舐めとり、名残惜しげに口の中へと戻る。
ゆっくり咀嚼を始める私の顎。甘味とわずかな苦味に合わせてえもいわれぬ快感が広がった。

「ぁ…ふ、んちゅ」

流石は高級品と言うべきか、私が作っても味が素晴らしい。
意地汚く指を咥え、はしたなく吸う。指先が舌をゆるゆると撫で回す。
誰も見ていないのは解っていても顔が赤くなった。

（旨い。こっちもくれ）
「そっちはまだ―――ッ」
（そのまんまでも良いだろ？）

保温が効いているホワイトチョコのボウルを右手が持ち上げる。
左手が勝手に上がり、指を閉じ器のようにした所にどろどろのチョコが注がれた。

人間なら無意識に手を引っ込めるレベルの熱が手を焼く。
しかし痛覚のない体は熱い心地好さを伝えてくる。
口元まで左手を運び、再び舌を伸ばす。

「―…っ、　ッ」
（甘ったるいな。お前みたいで旨いぜぇ）
「んうぅううう―――！！」

猫のように舌で掬って無心で口に運ぶ。熱さは苦にならず舌は止まらない。
指の腹がぞわぞわする。火傷でもしたんだろう、感覚が鋭敏になっているようだ。

「っぷは！あぁもう勝手なことばっかり…！」
（褒めたのに怒んなよ。相変わらずおもしれー奴だな）
「大人しくしててよ！まだ沢山あるんだから！」
（あーあー解った解った。じゃ、待ってるぜ）

力の抜ける両手。離れていく感触。
白く汚れたままの手を水につけた。
力任せにゴリゴリと擦り、力が抜けて流しに寄り掛かる。

凄まじい脱力感。同時に酷い敗北感。
色んな物で私はアイツに、圧倒的なまでに負けている。

「最っ悪…」

のろのろ立ち上がり頭を振った。凹んでいたって何も解決しない。
悪いことより愉しいことを。その信条で頬をひっぱたき気合いを入れる。
半分は生チョコにすると決めているのだ。急がなければ。

（一番困るのはアイツ宛なんだけど）

大量の生チョコとブラウニー、そしてクッキーで満たされた小箱たち。
形や切り口が整わないのはもう諦めた。味見したら美味しかったしそれで充分だろう。

1つだけ、やけに可愛らしく愛情を感じる箱がある。ハート型で、カラフルなチョコレートが詰まった箱。
無意識とは恐ろしいもので、すべての小箱に名前シールを貼り終え、さあ最後と言う所でこの箱になったのだ。
すごく、癪だ。

（……いいや。さっさと渡して戻ろう）

腐っていても仕方がない。大人しくアイツの居場所に跳んだ。
こうして会いに行ってしまうくらい、それこそ何百年も前から―――――

「ほれ」
「ひゃっ！？」

待ち伏せ。鼻先に突きつけられた何か。
チョコレート色の、チョコレートかもしれない、何か。
いつもの光景の代わりにしては心臓に悪い。心臓に悪い、真剣な顔。

「お前と交換だ」
「え、あっ、えっ？」

ぽとりと手の上に落とされた小さな箱。抱き寄せられる。
耳に唇が触れた。

「お前ごとくれ」

今日は、帰りが遅くなりそうだ。