ENo.2531 リノア=セラフ

『ほら、入れ』
白衣の男は、私が背伸びをしないと届かないドアノブをいとも簡単に握り、ひねり、眼前に大きくそびえ立つ壁を、ゆっくりと押し開いた。
そこに合ったのは、足を投げ出して俯いた、白いお人形……。

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ACT.1-1
「 angel 」

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最初の記憶は、試験管の培養液の中。
私を見ている多数の目。認識できるのはそれぐらい。

次の記憶は、椅子に座っている私。
木で出来ていて、ささくれだった椅子が、素肌に刺さって少し痛い。

三番目の記憶は、靄のかかったシルエット。
見下ろしている誰か。

そして、この目の前の足を投げ出しているお人形を視た時からが、”私”の記憶。

りのあ「こ、こんにちは…」

白いお人形は何も答えてくれないが、少し顔をずらして、ちらりと私を眺めたようにも見えた。
その一言の後は、無音が支配する空間。お人形は足を投げ出したまま微動だにしない。

お人形「――」

観察していたら、お人形が口を動かして、何かを喋ろうとしてビックリした。しかし、それは声になってなくて、風切り音のように、ヒューと鳴った。
それが、なぜか堪らなく可笑しくて、私は笑ってしまった。多分、長い間喋って居なかったんだろうな、とは思ったけれど。
お人形は私が笑ったのが不快なのか、顔を上げて、私を睨んだ。

お人形「…いまの、なに」

睨んだままお人形は、今度はちゃんと声になって、私に問いかけた。少なくとも、私の耳にはそう聞こえた。
しばらく言われた意味がわからなくて、お人形を見つめていた。
いまの…は時勢だ、なに…はきっと疑問だ。私が笑った事が不思議なのか、それとも笑うという事を知らないのか。

りのあ「わらったの」

面を上げたお人形は、とても無感情で、きっと後者だなと思った。だから、行為そのものを口にした。
しばらく俯いてお人形は黙ってしまった。すると、緩慢な動作で、もう一度こちらを見て、口を開いた。

お人形「わらうって…、なに」

そら、来た。予想はしていた、きっとこの子は感情って物がよくわかってないんだ。いや、感情自体は知ってても、それを表現する言葉を知らないのかもしれない。
ここで、楽しい事と言ったら、今度は彼女は『たのしいって、なに』と聞き返してくるんだろうな。
なんて説明したらいいのだろう。わらう……、楽しい……、自然と動作にしているし、自然と感得するものだけれど、実際私にもどういうことか解らなかった。
俯いて考えこんでから、眼を戻すと、白いお人形は投げ出した足を抱え込んでいた。

私はココがどういう場所なのか、よく分からなかった。今まで居た部屋と似た感じではあるけれど、違う所がある。それは、この目の前のお人形だ。
よくよく見てみる。白いのは髪だけじゃなくて、肌も真白。服の汚れが逆に目立つぐらいの白さ。
私の中の白は、三番目の記憶。あの靄のシルエット。それと、この施設の壁の色。

長い沈黙が、支配する。

『お人形さん』

沈黙を破ったのは、私じゃない誰かの声。この場所には、私と、あのお人形しか居ないから、きっと白いお人形が私に話しかけた。に違いない。

『あなたは、だぁれ？』

私を”だれ”と問う声。
私は私だ。でもきっとそういう事じゃなくて、多分、名前……。

のーれあ「わたしは――のーれあ」

りのあ「私は、りのあ」

声が重なった。何で、自分から聞いてきたのに、自分が先に答えているんだろう。お陰で聞き取りづらかったじゃないか。
でも、判った。お人形さんは、のーれあという名前らしい。
破られた沈黙を繋いで行きたかった。このまま黙っていたら何がなんだか分からないし。

りのあ「ねぇ、のーれあ。ここって、どこなの。わたし、きゅうにつれてこられたの」

頭を振って答えを考えだしているのか。きっと普段は使わないのだろう。足を投げ出していたぐらいだし。

のーれあ「…しせつのへや。じっけんたいは、ここでせわされるの」

多分のーれあは意味をよくわかってないんだろう。喋りに抑揚がない。
なるほど、私も半分ぐらいしか分からないけど、白衣たちが言っていた言葉な気がする。特に、じっけんたい…とかは。
この様子だと、のーれあはよく知らなそうだ。きっと気づいた時から、この部屋に居るのかもしれない。これ以上は期待できないかも……。

のーれあ「さっき、きいたこと……」

また掠れそうな声で、のーれあが喋る。さっき……？
あぁ、あの質問の答えか、ずっと待っていたのかな。

りのあ「わらうってさ、たのしいってことなんだけど、わかるかな」

漠然としてる答えしか返してあげられなくて、むしろ悔しいのは私だった。のーれあは何度も何度も、たのしい、と言葉を繰り返しては、視線を宙へ向けたり、俯いてみたり、せわしなく動かしている。

のーれあ「そっか……。へんなこときいてごめんね」

俯いたまま、のーれあは呟いた。彼女なりに納得が行ったのかもしれない。言葉ではうまく説明できないだけに、難しい。
やがて何か一つを決めたかのように、うんうんとのーれあは頷く。
なんだか、微笑ましい。

それから暫く、沈黙がまた続く……。

暇だった。のーれあはずっと同じ所で、壁を背にしてボーっとしている。それを固いベッドに腰かけて観察していた。
どうやったら、そんなにずっと同じ体勢で居られるんだろう。飽きないんだろうか。

りのあ「たいくつじゃないの？」

のーれあ「りのあは、へたくそだ」

気がついたら、のーれあの髪を掴んで顔を引っ張り上げていた。なんか、バカにされた気がしたから。多分、無意識のうちにやっていた。
一発二発打ってやろうと思ったけど、眼前にある顔は、髪で大部分が隠れているが、怯えていた。
いや、怯えているんだけれど、何をしたのか分からないと言った感じ。そんな顔を見たら、私が悪者みたいじゃないか……。
手を髪から離した。なんだか、いたたまれなくなったんだ。

のーれあ「いたかった……」

そういうと、のーれあは、私の髪を掴んだ。
引っ張るんじゃなくて、ただ掴んでいるだけ。だから痛くもなんともないんだけど、そんな素振りを見せない私に不思議がっているようだ。

のーれあ「いたくないの？」

りのあ「いたくないよ」

だって引っ張ってない。掴んでるだけだから、全然痛くない。そういう事も知らない、無垢な子なんだ。

のーれあ「なんでいたくないの？」

りのあ「…そのまま、手を自分のほうに引いてみなよ」

のーれあは言った通りに、素直に髪の毛を引っ張った。

りのあ「いたたたたたっ！」

のーれあはしばらくひっぱると、髪を離した。ホント痛かった。思いっきり引っ張りやがった。

のーれあ「しかえし」

なんだ、笑えるんじゃん。
満面の笑み……とまでは行かないけれど、満足気に口の端を上げている。
私は、髪を撫でた。引っ張った時には気づかなかったけれど、さらさらやつやである。手触りがすごくいい。

りのあ「ごめんね、いたくして」

のーれあ「うん、いたかった……、でもこれでいっしょだ」

なるほど、一緒だ。痛かった事は痛かった事で共有しただけだ。
一人だったのーれあが、誰かと一緒であるというのは、初めてなのかもしれない。

のーれあ「ぼーっとするのが、へたくそってこと……だから、ごめんなさい」

りのあ「きにしてないよ…。じゃあ、どうやってぼーっとするのがいいのか、おしえてほしいな」

のーれあは、頷いて天井に視線を移した。何があるのだろうと、私も追ってみたが、ソコには勿論天井しかない。
……いや、そこで私は、のーれあが、どうしてずっと同じ壁を背にしているのかが判った。その場所は、壁に付いている小さな格子窓の真下なのだ。
そこからは、外の光が差し込んで道のように見える。その光の道には、白い粒が舞っている。
私は知ってる。これは埃だ。
でも、その光の道から、のーれあに降り注ぐ乱反射する埃は、その時の私には、天使の羽に見えた。

_blank angel

誕生したばかりの天使だ。無垢だし、何も知らない。

りのあ「のえる」

のーれあ「なにそれ」

天使は反応して、こちらへ顔を向けた。まっすぐに、青い眼が私を見つめている。ちょっと機嫌が悪そうになっているのは、きっと折角教えているのに、という感じ……かな？
でも、私は続ける。

りのあ「ふれんちのことばで、えーっと……、たんじょう、っていみ」

今まさに、誕生した天使に名付けるには、ちょうどいい名前じゃないだろうか。

のえる「わかった、じゃあ……、わたしはきょうから、のえる、だね」

聞き返しもしない。分かってくれたらしい。
私は、のえるの隣に腰を下ろす。そして、さっきののえると同じように、光の道を見上げる。

りのあ「へぇ……、きれいじゃん」

のえる「でしょー？」

そのまま、のえるは私の胸に頭を預けてきた。
優しく腕で頭を抱えてやる。私は、多分、ずっと忘れないだろう。宝物を自慢する子供のように、満面の笑を浮かべた、この _blank Angel の事を。

_blank angel が産まれたから、私は天使をノエルと呼んだ。
だからあの子が誕生したこの日から始まるのが、”私”の記憶だ。