ENo.2520 Ｋ・Ｌ・マイス

　オルゼの街は以前に立ち寄った二つの街とは明らかに違う重厚で厳格な雰囲気をまとっている。石畳が敷き詰められた通路は、何代も重ねてこの街を過ごしやすいように工夫してきた先人たちの営みをそのまま感じさせて、俺はしきりに感心してしまった。この道を作るのにいったいどれほどの年月が必要だったのか、この街の景観が、いったいどれほど大勢の人によって育み、守られてきたのか、それを考えるだけで、たかだか耐用年数数年の車いすの俺からすると目眩を覚えるようだ。
　もっとも、目眩というものを俺は体験したことがないのだが。だが、頭が痛い、と人間が故障するような悩みが俺にもないわけじゃない。目眩だって何となく想像が付こうというものだ。
　そう、目下俺の最大の悩みと言えば、食べ物についてだった。アルフとニーネは俺に気を使っていつも食物を用意してくれている。その気持ちは非常にありがたい、無碍にすることは出来ない。だが考えてみてほしい。車いすはものを食べないのだ。
　最初は、皆と同じように食事をとろうとしてみた。それはそれでうまくいっていたと俺は考える。だが、毎日首を傾げながら俺の前に食べ物を置くニーネを見るにつれ、そろそろ食事事情も次の段階にいってもいいのではないかと、俺はそう考えるようになったのだ。
　どうするべきか……。
　答えは出ない。
　いっそ、もう食事は要らないとそう切り出してみようとも考えた。だが、そう切り出したらニーネはどう思うだろうか？
　普段から物事を悲観的に捉えがちな彼女のことだ。私のご飯が美味しくないから……等と考えかねない。もっと遠回しに言う必要があるかもしれない。
　アルフに相談してみようか……？　彼ならうまいこと仲裁してくれるかもしれない。
　考え事をしながら、舗装された道を歩く。
　部屋で待っていてもいいのだが、ニーネは何かの準備をしているらしい。それを邪魔しても悪い。心なしか、アルフもそわそわしていて落ち着かない。その落ち着きのなさが俺にまで伝染してしまいそうで、俺はこうして、渋々ながら外をうろついているのだ。
「あのう」
　そうしていると、ふと知らない女性に声をかけられた。すわ、俺が必要な案件か!?　と彼女の足を見たが、彼女は立派な二本足でしっかりと立って俺を見下ろしている。
「どうした？」
　念のため用件を伺うと、彼女は恥ずかしそうに手をもじもじとさせて、なにやら仰々しくラッピングされた包みを俺に向かって押しつけた。
「ずっと好きでした！　受け取ってください！」
　沈黙。
　彼女をもう一度観察する。
　顔が赤い。熱でもあるのだろうか？
　念のため、あたりを見渡してみたが、周囲に人影はない。
　というか、人間は彼女しかいない。
「……正気か？」
　言葉にせず心の中だけで呟いたつもりだったが、どうやら事態は俺の自制心を優にうわまっていたらしい。知れず言葉が漏れていた。
「はい！　竈馬から助けていただいたあの日から、ずっとあなたのことが忘れられなくて！　きっとこれは、恋！」
　そうなのか？
　参考程度に誰かに伺ってみたかったが、生憎周囲には誰もいない。おそらく正気を保っている人間は半径１０ｍいないには存在しない。
　これも、この世界の異変か……。
　半ば強引に納得しながら、まあ受け取るだけならと踏み込むと、彼女は笑顔でこう言った。
「ここで食べてみてください！」
　中身は食べ物なのか。
　ふむ。
　もはや邪悪なそれにしか見えない笑顔で包み紙を開ける彼女。
「どうやら、俺には全てが理解できた。キミのそれは恋じゃない」
　恋というものを俺は理解できないが、これだけははっきりと言えるだろう。
「それは、好奇心というものだ」

　彼女からその食べ物、チョコレートを受け取るのは丁重にお断りした。受け取る受け取れないの問答をしているうちに、周囲には人だかりが出来てしまったが、車椅子にチョコレートを渡そうとする彼女と、それを受け取れないと拒む俺、周囲にはどちらがより奇異に映っただろうか。
　あまり目立つのは好きじゃないんだが。
　外をうろつくことに辟易した俺は、早々に宿に引き返すことにした。ここなら不必要に目立つことはないし、頭を悩まされることもないだろう。
　宿に俺の部屋は用意されていない。モノにはプライベート等という概念は存在しないからだ。必要とされたときにいつでも使用できる。そうでないとモノである価値がない。
　あえてプライベートに価値を見いだすとしたら。
　それは、あの『迷い子』での時間だけだろうなと、そう考える。あそこでだけは、俺は他のモノと同様に、自由に振る舞ってもいいのだろうなと。
　台所を借りていたニーネが、廊下にひょっこりと顔を出した。俺を見つけて、「ちょうど良かった」とはにかみ、「ちょっと待っててください」と言った。
　彼女の足はまだ本調子じゃない。待ってなどいずに、迎えにいこうかと考えたが、彼女はすぐにまた廊下に顔を出した。
「えーと……バレンタイン、って知ってます？　女の子が男の人にチョコを渡す日なんですけど、なんていうか、マイスさんにもいつもお世話になっているので……」
　そう言う彼女の手には小さな箱。
　彼女の言うとおりなら、中身はチョコレートなのだろう。
　正気か？
　幸いにして、今度は口にしないだけの自制心を発揮できた。
「そ、そうか……。それはありがとう。すまないが、座椅子に置いてもらえないか？　なんとかしよう」
「なんとか……？」
　俺はどうしたらいい？
　後でアルフにでも食べてもらうのがいいのだろうか？
　その足でアルフの部屋に向かうと、アルフは、
「マイスさんももらったんだ？　……ふーん」
　と言ったきり、なぜかつまらなそうにしていた。
　チョコレートを渡す事は出来たが、その日アルフは口をきいてはくれなかった。
　どうして俺がこんな目に遭う。

　『ぎり』と大きく書かれたチョコレートを、ひかげが俺の座椅子に置いた。
　またか。
　正気か？　と聞きたかったが、間違いない。正気なのだろう。この世界で狂ってるのは俺なのだ。きっとそうだ。
「女には見えないから持ってきたけど……どっちなのあんた？」
　どっちも何も、車椅子に性別とかあるのだろうか？　俺が聞きたい。
　だが、チョコレートか。
　俺が悪いのか？
　気持ちの篭ったプレゼントを食す事が出来ない、俺が悪いのか？
　なら、どうすればいい？　どうすれば食べたと、そう納得してもらえるんだ？
　大地を下顎、前輪を上顎に見立てて踏み潰してみるべきだろうか。咀嚼を模した崇高な儀式として、果たしてひかげは認めてくれるだろうか。
「よく考えたら食えなかったわね」
　……！？
　今、俺にはチョコレートが食べられないと、そう言ってくれたのか？
　聞き間違いじゃないんだな？
　……そうだ！
　その通りだ！
　よくそこに気が付いてくれた！
　いい加減、俺には食べる機能が必要なんじゃないかと勘違いするところだった!!
「仕方ないから私が食べてあげるわ」
　さもしょうがないという顔でひかげが言った。
　そこまでしてくれるのか！？
　チョコレートで感謝の気持ちだけ伝えつつ、しかし食べられない俺のために自分で食べてくれるのか！？
　女神だ！
　すばらしい気遣いだ。
　感謝の気持ちを伝えるというのなら、今、俺がキミに感謝のチョコレートを渡したいくらいだ。
　……！！
　そうか……、ひかげはそこまで見越して……。
　俺がお返しする手間さえ省こうというのか！
　見ればどうだ。自らが持ってきたチョコレートを前にして、その嬉しそうな顔は。
　既に、俺の感謝すら伝わっているとみて間違いないだろう。
　……俺は、車椅子に生まれてきてよかった。
　ひかげのような人間達の役に立つために生まれてきてよかった。
　明日からまた、案内を頑張れる。
　キミのおかげで、そう思えたよ。