ENo.1239 アッシュ・サフ

だとすれば次のように想定する必要があるだろう。監獄は、しかも一般的には多分、懲罰というものは法律違反を除去する役目ではなく、むしろそれらを区別し配分し活用する役目を与えられていると。しかも法律に違反するおそれのある者を従順にすることをそれほど目標にするわけではなく、服従強制の一般的な戦術のなかに法律への違反を計画的に配置しようと企てているのだと。だとすれば刑罰制度とは、違法行為を管理し、黙許の限界を示し、ある者には自由な行動の余地を与え、他の者には圧力をかけ、一部の人間を排除し、他の人間を役立たせ、ある人々を無力にし、別の人々から利益を引出す、そうした方法だといえるだろう。
（『監獄の誕生』／写本者：H）

　刑罰や懲罰は服従からもたらされる利益 merite を世界内で回収できなければ単に暴力の発露として終わる。刑法とはゴミを捨てる技術じゃなくゴミを利用する技術だ。ゆえにこそそうした刑法の最終的な挫折は死刑あるいは流刑として現れる。いや死刑や流刑がついにはショーとして統治者の権威の補強に回収されていくことを思えば、挫折と呼ぶべきじゃないのかも知れない。どちらも永遠のアデューだ。そして劇的でないアデューはない。永遠の別れ。甘美な響きだ。しかし流刑は死刑よりもいくつかの（主に倫理的な）点でたやすくいくつかの（主に正確性の）点で難しい。流刑地で財をなし悪行を働く人間の話は決して珍しくはない（勿論結局は目立った事例に過ぎず、大半の流刑者においては密やかに死に至るのだとしても）。アンジニティに流された罪人たちの中にも略奪はあり闘争はある。と云うよりもアンジニティは略奪と闘争を赦している。ここは否定の世界であり否定こそが世界律に沿っているわけだ。飯を食えば腹が膨れるように俺たちは人を踏み躙れば癒やされる。

　それぞれの世界の流刑が結局船出と共に終わるショーであったのかどうかは知らない。フィリオリビエでは俺の処刑は儀式だった（とは云え儀式もまたある種のショーだ）。激痛を伴う着火と共に俺はアンジニティに抛られて、そうして俺の燃焼は始まった。今もって燃え続けている。高山の冷ややかな空気も俺を通り過ぎてはぬるい風に変わっていく。俺と云う紙屑がアンジニティで燃え続けていること……時に異世界の追放者も巻き込みながら燃え続けていることはフィリオリビエの人間には知ったことじゃあるまい。アンジニティから脱出することはできない。ごく一部の世界間通信能力者が多少は訴えを聞くこともあるだろうとは云え、今さらアンジニティの嘆きの多少が世界間問題になるとは考えにくい。ここは否定のゴミ溜めだ。それぞれの世界が好き勝手に処理不可能物を棄てている。そして排出なしに定常性を保てる世界はない。

　刑罰の残酷さを際立たせるためにフィリオリビエは俺に《炎》の烙印を捺すしかなかった。屑籠に燃えた紙を仕舞えばどうなるか。想像できない程に愚かだったとは思えない。ただ屑籠の大きさと俺の小ささを比較計量し問題ないと頷いた上での決断だったわけだろう。さて俺の火は《否定》と共にこのアンジニティで強く燃え盛る。業を火種とするかのように。目覚めは不調で意識は朦朧だ。水銀のあるわけでもなし俺の体温を残念ながら正確には知らない。あまりに火霊力の高まれば呪詛はやがて俺の血液を煮え滾らせ蛋白質を凝固させて死に至らしめるだろう。しかし、と思わなくもない。焚火に手を差し入れる。熱い。のは無論だがすぐに引けば俺の手は焼けない。この不燃性もまた日増しに強くなる。既にして俺は火を熱い湯のように感じ始めてさえいる。火霊力の高まりとは詰まるところ火への耐性の高まりでもあるのだ。俺自身は燃えない。しかし俺の周囲は燃えていく。砂漠渡りの予言はある意味じゃあ面白い未来予想図だ。　君の足元には燃え尽きた灰しか残らない。その灰ですら、いずれ君の焔に焼かれ周囲の者に害を及ぼし始めるだろう（砂漠渡り／写本者：H）。だが、私には君の姿こそが真に惨めにみえるよ。君は関わるもの全てを灰にするだろう。そして、それでよいと思っているのだ（砂漠渡り／写本者：H）。　身に余る評価だ。俺の火が焼けるものはまだあまりに少ない。繰り返していたはずの《否定》のきっかけもいつからか周りに踏むべき人間を見なくなった。屑籠の中の火種のようにアンジニティを焼く。魅力的な響きではあるだろう。ひとまずはそれを目指してみるのも面白い。

　ある種の世界間通信技術はアンジニティの声も聞き届ける。それは取りも直さずこの隔離されたアンジニティでさえなんらかの出口がどこかにあると云うことだ。その道を通るものは今のところ通信しか知られてはいない。声や文字や映像しか知られていはいない。だが本当に世界間を渡るものは通話に限られているのか？　アンジニティで激しく燃え盛った炎はあるいは世界外を焼くこともありはしないか？　愉しい空想。しかし残念ながら俺にそうした炎の行方を知るすべはない。俺の世界間通信は結局のところフィリオリビエのあの水盤に頼っていた。俺自身の能力じゃない。俺の炎が何を焼くのかについて俺は世界内の事柄をしか読むことができない。

　マタル・ユイがいない夜更けはいつもより暑い。水霊力の不在のためであるかどうかはわからない。離れて一日。たかが一日だ。あの早足が山を越えた平原で本当に一夜を明かしているものかどうか知れない。確証はない。言葉は届くだろう。世界を隔ててはいない。しかしその肉体や精神の真実に平和か否かは結局のところ会わなければわからない。通信だけでは届かないものがある。間近になければ品々の行き来も殴り合いも遠いものだ。距離の絶対的な隔壁性と通信の不完全さも俺は知っている。だから俺たちは待っているマタル・ユイに会わなくちゃならない。もう一度。