ENo.1229 キルスティン＝ヒュールネン

その一室―フリストという町の、極めて質素な宿の―に据え付けられていた鏡。
仕掛けもないはずの、ただの鏡だ。
ゲオルクさんが寄越してくれた赤珊瑚のピアス、それを耳に通してみようと何気なく覗いた。それだけだった。
はてさて、これはどういった次第か？

鏡‥と呼ばれるからには、そこに映っている像のかたちは
紛れもなく自分自身のものなのだろう。
なのだろう、などと、どこに推し量る余地があるというのか。
それが不思議なもので、私自身も首をかしげてしまう事態だ。

向かい合った鏡面の中で、私の目の前に現れた像は、
｢私が”私”として記憶しているモノのかたち｣ではなかったのだ。
加えてその女の像は、私自身のものとは異なる意志の下に挙動している。
あの、赤い眼の女だった。

例のごとく夢であるとするならば、現との境目は随分と曖昧になってしまったものだ。
まだ眠りに落ちるような時刻ではなかったというのに。

さておき、この間はわけも分からぬうちに煙に巻かれてしまった。今度はどう動いたものか。
考えを巡らせている私に眉一つ動かすこともなく、”女”は渇いた唇を小さく開く。

｢こんばんは、もうここまで来てしまったわ。状況が随分と早まったものね｣

その言葉は以前耳にしたよりもずっと近しく、鮮明な色を帯びて響いた。
女の姿を見るのはこれで何度目か‥十には満たないだろうけれど、
今度の彼女はいつになく饒舌であるように感じる。

｢既に気付き始めた人がいる。
偶然にしては不運な巡り合わせ‥それとも幸運？
遅かれ早かれ避けられないのだし、私にとってはどちらでも良いけれど｣

感嘆とも失望ともつかぬ声色でそう呟く。相も変わらず要領を得ない語り口で。
女は続ける。

｢あなたの持つその力は、あなたの思いが形作る影。
思いを辿れば辿るだけ、あなたはあなた自身に向かい合う。
あなたが影を呼び起こす度、覆い隠した真実は露になる｣

｢あの、さっきから何の事を言っているのか分からないわ｣

｢分からないでしょうね、まだ｣

女は口の端を歪めて笑う。こちらの反応を愉しむようにも、嘲けるようにも。
その眼は虚ろに、光を宿さぬままに。

｢力が醒めたのは昨日今日ではないこと。あなたはじきに思い出す。
夢のままではいられなくなる。
その”貌”でいられるのも、いつまでかしら｣

｢かお‥？｣

言われるままに、右の頬を押さえる。

｢ご覧。あなた自身も奥底では気付き始めている。
楽しい舞台はもうすぐ幕を引くわ｣

その言葉が最後とばかり、私の瞬き一つを境にして女の姿は消えた。
鏡の向こうには元通りの”私”の像だけが残されている。

夢のままでいられない、と彼女は初めて口にした。
その事を思い出すと、いやに寒気がする。

ふと、鏡を覗いた本来の目的が頭をよぎる。
それらは両の耳元に小さく輝いていた。
彼の見立てが合ったのだろう、始めからそこにあったものであるかのように馴染んでいる。
あの女のものとは違う、艶やかな赤い光。ここにピアスを通したのはいつぶりだろう。

「自分の力をコントロールするのを助けてくれる」――
そう込められた贈り主の思いを手繰るように、そっと指先でなぞった。
大丈夫、今見ているのは悪い夢。全て悪い夢なのだから。
私は私に今できることを、ただしていればいいだけ。