「スギ」

聞き慣れた声がした。
夕食の後、紫鯤の仲間達から離れてぼんやりしていた俺は、その声を聞いて耳を疑った。随分久しぶりに聞いた、明瞭な、紫鯤の声だったからだ。

「紫鯤！？　どこだ！？」

慌てて周囲を見回すが、辺りには荒涼とした砂っぽい土地（昔は訓練場か何かだったらしい）が広がっているばかりで、紫鯤の姿は見えない。うまく夕闇に紛れているらしい。向こうからは、俺のことが見えているのだろう。

「久しぶり、スギ」
「紫鯤、お前」
「聞きたいことがあるの」

紫鯤の声は平坦だ。先日垣間見せた狂乱や動揺はどこにも見えない。

「何だ。何が聞きたいんだ」
「どうして」

きらりと。
俺から少し離れた砂の中に、光るものがあった。
それが濃い紫に底光りする紫鯤の目だと気がつくのに、幾らか時間がかかった。

「どうして、私を作ったの？」
「……それは」
「作っただけじゃない。どうして私を連れ出して、旅をさせたの？　『帰れない呪い』なんて、嘘までついて」

紫鯤の声に詰問する響きはない。
ただ淡々と、事実を確認するために口を開いている。そんな感じがした。

「私がどういう生き物なのかはカメリアちゃんから聞いたよ。私がどうなっちゃってるのかも聞いた。私ね、もう人間でも不定物aでもないんだって。価値観も感覚も人間に近すぎるのに、それでも結局のところただの擬態だから、完全に人間にもなりきれないんだ」

実のところ、それは俺が最も望んでいた結果でもあった。紫鯤の言葉が（そして彼の同族であるカメリアの言葉が）事実であるのなら、これ以上に嬉しいことはなかった。
だが、俺にはそれを喜ぶ資格なんてないこともとっくに知っている。
紫鯤の話はまだ続いている。

「だからね、これからどうするかは、私が選ぶしかないんだ。無理矢理にでも元の、誰でもない何かに戻るのか、それともこのまま人間のふりをし続けるのか。私は選ばなきゃいけない。……でも、ね、スギ。そのためには、私は何もかも知らなきゃならないんだ。だから、教えて？」

夕闇の中で開かれている紫鯤の目。
最早日は地平線の向こうに落ちているにもか関わらず、鉱物めいたそれが一際強く光った気がした。

「どうして、私を作ったの。スギは私を、どうしたかったの？」
「……」

とうとう、この時が来たか。
できることなら、隠したままでいたかった。紫鯤は何も知らず、人間として生き続けてもらいたかった。知ってしまったら彼が深く傷つくのは明白だったから。
だがそれは、思えば最初から無理な相談だった。例えば、紫鯤は歳を取らない。彼の外見は二十代前半で固定されている。そして「徐々に外見を変化させる」なんて術を仕込むのは、俺の技量を大きく超えている。
たとえこの先ずっと境戸家から逃れられ続けたとしても、俺と一緒に行動していれば嫌でも紫鯤は気づくだろう。俺ばかりが年を取り、自分はいつまでも変わらず若いままでいることに。
その他様々な矛盾や課題にも、俺は「それはおいおい考えるしかない」と言い訳をし続けていた。そうして二年は、どうにか紫鯤に知られずにすんでいた。
だが、それももう終わりだ。紫鯤は自分の正体を知ってしまった。そしてこれ以上ないぐらい傷ついた。
それでもなお逃げ出すことなく、俺と会話を試みてくれていることに、俺は感謝すべきなのだ。

「最初、は」

吐き出した声はすっかり掠れていて、うんざりした。

「実験だった」
「実験」
「持ちかけて来たのは境戸家の研究員だった。何にでも姿を変えられる生物を手に入れた。少し複雑な実験をするから協力してくれないかと」

境戸家は極力、不定物aの情報を秘匿したがっていた。しかし、彼らの本業は召喚術であり、操作を得意とするものはあまりいなかった。そこで外部に協力を要請することにしたようなのだが、下手に大きな魔術結社や流派と接触した場合、最悪不定物aを奪われるのではと危惧したのだ。
そこで白羽の矢が立ったのが俺達LaWSysだった。LaWSysは鉱物を介して世界の「設定」を部分的に書き換える術だ。「設定」を書き換えることで何かを操作する術でもある。彼らの実験にはお誂えむきだったのだろう。
おまけにLaWSysは発足から数年に満たない新興魔術流派であり、構成員も少数だった。箝口令を敷くのは容易いし、何かあったら流派ごと潰してしまえばよかったのだ。
そして俺はそこの中堅構成員で、境戸家の一部の研究員とも面識があった。

「架空の人間を、架空の人格を乗せて作ろうと言われたんだ。それで、弟弟子を作らせてくれと申し出た」
「……」
「お前も知ってるだろう、LaWSysは術者に適性がないと扱うことができない。そのせいで構成員が増えなくて、師匠にはいつも苦労ばかりかけている。だから俺の感覚を不定物aに模倣させて、そこに呪文で手を加えていけば、いずれはLaWSysの適性がどこに拠っているのかも、分かるんじゃないかと思った。そうすれば、いつかは師匠の役にも立てるんじゃないかって」
「……それで、私を？」

紫鯤の声色は相変わらず静かで、そこからなにがしかの感情を読み取ることは困難だった。

「そうだ。お前を境戸家の人間と設定したのはあいつらの希望だが、それ以外は概ね俺一人で設計した」
「先生は、私の正体を」
「何も知らない。お前はLaWSys適性があるだけの、普通の人間だと思ってるはずだ」

境戸家と協力するにあたり、俺は師匠に何も知らせなかった。何もかも俺の独断で進めていたことだったから、後ろめたさもあったし、師匠に余計な心配をかけさせたくなかったのだ。
だから、適性のある弟子入り志願者だと偽って紫鯤を紹介した。久方ぶりの仲間だと大喜びする師匠を見て苦い気持ちを覚えたのを、今でもよく覚えている。

「私を作ったのはいつ？」
「俺の体感時間では、大体三年前だ」

三年、と紫鯤が呟くのが聞こえた。

「実験は極めて順調に進んだ。お前は完全に自分が人間だと信じ込んで、人間として動いた。お前はLaWSysとも良く馴染んでいたし……だが、上手く行き過ぎたんだ」

紫鯤が活動を始めて一年が経った頃、突然境戸家から実験の終了を告げられた。
不定物aの擬態は自身すらも騙し得るほど巧妙であり、それはこの一年で充分に裏付けが取れた。
紫鯤に関するデータもほぼ出揃った以上、実験を続ける意義はない。ここでひとまず終了として、また別の存在に擬態させる実験を開始する予定である。
そんな事を一方的にまくし立てられて、俺は何も言えなかった。

「笑ってくれ、俺はいつの間にか、お前と過ごすのは単なる実験でしかないって事をすっかり忘れてたんだ。お前があんまり人間らしく動くものだから、お前がこれからもずっと、俺の弟弟子でいてくれるものだと、思い込んでいた」
「……」

俺がLaWSysに所属したのは父が師匠の友人だったからで、LaWSysは元々師匠とその友人達だけで作られた集団だった。今も構成人数は二十人足らずだが、その大半が俺の父と同じ年配の人間で、俺のような若造はほとんどいなかった。

「正直に言うと、嬉しかったんだ。俺と同じ年代の奴がいて、一緒に馬鹿騒ぎしてくれる奴がいるってのが……そうなるように作ったのは俺なのにな。そんな事まで忘れてしまうぐらい、お前と一緒にいると気が楽だった」

俺は勿論、LaWSysの皆を尊敬している。だが、尊敬するからこそ息が詰まることだってある。
紫鯤の存在はいつの間にか、俺にとって外の世界への風穴のようなものになっていた。
俺はお世辞にも、友人が多いとは言い難い。かつて何人かいた同年代の知人達とは、すっかり疎遠になってしまっている。俺の付き合いは全てLaWSys内で完結してしまっていた。
同じ年代の、しかも気が合う奴が一人いるだけでこんなに楽になるなんて、思ってもみなかった。

「境戸家に『これで終わりだ』と言われた時、俺は怖くなった。師匠はお前がいなくなると悲しむだろうし、何より俺はまた、一人になってしまう。それで、お前を手放したくないと、お前を元の名前のない塊に戻すのが惜しいと、思ってしまった。だから」
「私を連れ出して、あの世界に帰れないようにしたんだね」
「……その、通りだ」

声が震えている。滑稽だな。

「何もかも最初から、俺の都合だけで動いていた。師匠もLaWSysの皆も騙したし、何より紫鯤、お前に散々辛い思いをさせた」

紫鯤の仲間の一人は、俺のやったことは残酷だと言った。その通りだ、何の弁明もできない。
俺は何もかも自分の意のままになる存在を相手に、好き勝手に自分の都合を押し付けて友人ごっこを楽しんでいただけだ。もう子供なんかじゃないはずなのに。

「俺には本来謝る権利すらないが、それでも言わせてくれ。……すまなかった」

紫鯤は答えない。

「腹が立つだろう。怒鳴ってくれてもいい、殴り倒してくれたって構わない。もうお前は自由だ。好きなようにするといい。どんな選択でも、俺は受け入れる」

自分がやってきた事があまりにも恥ずかしくて、紫鯤の方に視線を向けることができない。
だから黙って俯いて、紫鯤の選択を待つしかなかった。