今日、紫鯤が紫水晶を「食べる」ところを見た。
どこで手に入れたのだろう、未加工の、掘り出したままの結晶だった。赤みがかった濃い紫で、紫鯤の指の先ほどの大きさしかない。
紫鯤は仲間の目に届かない位置まで歩いて行ったかと思うと、それをつるりと、葡萄の粒でも食べるような気軽さで口に含んだ。紛い物の喉仏が動き、嚥下したのが確認できた。

「紫鯤！」

つい咎めるような声色になってしまったが、紫鯤がそれを気にした様子は見られない。彼はただ少し、罰が悪そうな顔をしただけだった。

「そんなに怖い顔しないで、スギ。大丈夫だから」
「大丈夫って、何がだ」
「昨日も言ったでしょ、ブレスレット食べちゃったって」

紫鯤の目は、俺を見ていない。

「ビーズをバラしてね、ちょっとずつ食べたんだ」
「何で、そんな事」
「私の体がぐずぐずになっちゃった時にさ、もう紫水晶を身につけているだけじゃダメなんじゃないかって思ったから」
「だから食べようと？ 短絡的すぎるぞ、こんなもの呑んだら消化不良どころじゃ済まないだろうが」

実際のところ、体内へ取り込もうとする紫鯤の行動は正しい。何しろ彼は人間そっくりななりをしてはいるが、内部は人類のそれとはまるで違う仕組みをしている。……と言うより、人類で言うところの消化器自体が存在していない。消化は彼の意識によって為され、やろうと思えば表皮のどこからでも可能だ。
その事を、もしかしたら、無意識レベルで思い出してしまっているのか？ そう思い当たった俺の鳩尾に冷たいものが落ちる。

「そう、そうだよねえ、普通はねえ」

紫鯤はくすくす笑っている。

「でもスギ、平気だったんだよ。私、ちっとも具合が悪くならなかった。寧ろ逆に、体が崩れにくくなったよ」
「紫鯤、」
「でも少し経つとまたしんどくなるから、その度に一つずつ食べた。そうしてたら、とうとうブレスレットが一つなくなっちゃった。……ねえ、スギ。私は一体どうしちゃったんだろう？ こんなの、普通の人間じゃないよね」

そう言って笑う紫鯤の声はかなり虚ろで、俺は焦りを覚える。
こいつは一体“どこまで崩れてしまっている”のだろう？
ここは一つ、殺し文句を使ってみるしかないか。

「いい加減にしろ『紫鵬』。万が一のことがあったら、俺はお前の仲間に顔向けできない」

そう言った途端、紫鯤があからさまに顔をしかめた。
のんびりした彼らしくもない、敵意をむき出しにした目で俺を睨む。

「その名前で呼ばないでって、言ったよね？」
「お前がぼんやりしてるからだ。少しは頭に血が回ったか？」

俺の言葉に、紫鯤が目を細めた。
それからすぐに伏せ、大きく息を吐く。

「……分かった。でももう、なるべく呼ばないで。それはもう、捨てたんだから」
「ああ、悪かった」

返事をしながら俺も溜息を吐く。この設定もまだ生きているようだ。
「紫鵬」とは、紫鯤の「本名」として設定した名前だ。
彼は諸事情によりこの名前を捨てて「紫鯤」になった、と思い込んでいる。だから彼はこの名前に触れられることを極度に嫌う。彼の性質を構築する上でかなり根底に近い部分に仕込んである設定だ。
先ほどの彼の反応は俺の設定通りだった。と言うことは、まだ異常は彼の根底までは達していない。今ならまだ、修正が効く。それにひとまず俺は安心した。

「ねえ、スギ」

紫鯤が何か言っている。俺は顔を上げて彼を見た。
彼は無表情に、俺を見ていた。

「私は、人間だよね？」

修正は、できるはずだ。
彼のこの疑問だって、急激に自分の体が崩れた事に対する恐怖によるものだ。だからまだ大丈夫なはずだ。
そう思うのに。

「……何を言っている。当たり前だろう」

紫鯤に嘘をつきながら、俺は、じわりじわりと湧き上がる不安から目を逸らし続けていた。

男は何かぶつぶつと独り言を言っていたが、やがて一つ深呼吸をし、声を張り上げた。

声色は明るいが、その声にはどこか不自然さがある。