《そちらの調子はどうだ、紫鯤。すっかりご無沙汰だったじゃないか》

　耳に押し当てた携帯電話から、馴染みの声が聞こえてきた。こうやって電話で、元の世界にいる彼に連絡をするのも随分久しぶりだった。思えば最初にメルンテーゼへやって来たとき以来だったかもしれない。彼の声に、少し憮然とした響きがあるのは私の聞き違いではないだろう。

「ごめんごめん、ちょっと立て込んでてな」
《そんなこと言って、どうせ目一杯遊んでたんだろう？》

　う、バレてる。
　半笑いでごまかしたけれど、向こう側からは彼が呆れた様子で溜息を吐くのがハッキリ分かった。

《……まぁ、無事なのなら問題はない》
「あはは……」

　彼は杉上と言って、私の兄弟子にあたる男だ。確か彼の方が二つ三つ上だったと思うが、私が勝手に「スギ」と呼んで馴れ馴れしくタメ口を聞いても怒らない良い奴だ。多分、私よりずっと器が大きいんだろう。それに彼はいつでも真面目で冷静で、いかなる時も先生の一番弟子らしく振る舞っていた。
　私が『帰れない呪い』をかけられた現場に居合わせて、その後から今現在に至るまでずっとサポートをしてくれているのもスギだった。正直、私は彼に頭が上がらない。

《で、一揆の状況は？》
「ぼちぼち強敵が出てきたね。私達はまだ遭遇してないけど、王様側も殺気立ってるみたいで——あっ、そうそう、他の参加者を襲う連中が出てきたよ。賞金首になってるね」
《混乱に乗じて良からぬ事を企む奴はどこにでもいるが、もう出たか……気をつけろよ紫鯤、お前は肝心なところでぼんやりしてるからな。うかうかしてると身ぐるみ剥がされるぞ》
「うう、それはマジでご勘弁願いたいんだぜ……」

　「反乱が起こる地域はとかく不安定になりがちだから、参加者同士の争いも十分起こりうるだろう」と言うのはメルンテーゼに来る前にスギに注意された点だったが、今やその懸念は現実のものになっていた。私達は城内への進攻を、そういった人狩り達の目をかいくぐりながら行わなければならなくなった訳だ。なかなか骨が折れる。

《とにかく、充分用心することだ。先生も心配してるし》
「……ごめんよ、ぴんぴんしてるって伝えといてくれるかい？」

　先生はとても忙しい。だから基本的に、元の世界を離れる事ができないでいた。そのせいで私がこんな状況になってからは、ごく稀にスギを通して電話で連絡をしただけで、一度も顔を合わせていない。流石に私も、その事はとても申し訳なく思っている。
　私の言葉に対して、スギはごく短く《分かった》とだけ答えた。返答の短さが何だか嬉しかった。

《さて、そろそろ俺も次の用事があるから切るが……他に何か、聞きたい事は？》
「あ、そうだ。スギ、分かってたらでいいんだけどさ」
《何だ》
「『あの子』は、見つかった？」

　数秒ほど間があった。
　しばらくしてから、スギは少し低い声で答えた。

《……いや、まだだ》
「そう、か」

　なるべくいつも通りの声を出そうとしたけれど、やっぱり難しい。
　どうしても落胆を滲ませてしまう自分が情けない。スギにはもう充分すぎるほどサポートしてもらっているのに、これ以上を望むのは贅沢だ。

「ごめん、ありがとう」
《すまんな》
「いいって。それじゃあ、また連絡するね」
《ああ、気をつけてな》

　通話を切り、携帯電話を畳んでカエルのポシェットに放り込んでから、私は、大きく溜息を吐いた。
　傍らの木に寄りかかって、そのままずるずると座り込む。
　明日も早い。用は終わったのだから、すぐにでも皆のところに帰らないと。そう思う私とは裏腹に、別の私が叫んでいる。
　でも、その前に少しだけ。

「——『振り返る』」

　カエルの口に手を入れて、呪文を唱える。

「『去りにし日々を』」

　指先に薄いものが触れる感触。
　あの子は家を出るとき、自分に関するあらゆるものを処分してしまった。服も家具も自分用の食器も何もかも。勿論、自分が写った写真も例外ではなかった。
　「これ」は奇跡的に私のもとに残った、たった一つの、あの子が私の側に居たと言う証だ。
　カエルから引き抜いた私の手に、写真が一枚。
　そこにはにはまだ幼い私とあの子が、二人並んで写っていた。
　とても幸福そうに。

トゥーリにビクつく紫鯤に笑いながら

石を使った魔法の説明に興味深く聞き入っている

そう言うと、またもや妙な笑顔を浮かべる。

慌てて訂正する紫鯤に驚いていたが、平民と聞いて目をまんまるにした。

観察するように暫くじっと見たあと、いきなり笑いだし紫鯤の肩をばしっと一発叩いた

すっかり背筋から緊張が抜けて、そうかそうかと頷いている