甘い匂いが周囲に漂っている。
彼女がお菓子を作るのをちょっと手伝って、お茶の準備をする。
男に気を遣ってくれたのだろうか。用意されたプリンは初めてのもので、
申し訳ないと思いつつも、その優しい甘さと香りを有難く食べさせてもらった。

菓子作りの方が得意だと言った通り、彼女の作るお菓子はとても美味しい。
焼き上がりの頃を見計らってお茶を淹れ、調理台の一角にそれを広げる。
争いの最中、それも敵地のど真ん中とは思えぬほど、のんびりとした時間。
交わす言葉は世間話めいて、考えねばならぬこと全て、横に退かした穏やかな。
多く分け与えてもらったくせ、男の皿からは、ひょいひょいと菓子は消えてゆく。

「お菓子屋さん？あーイイんじゃねェの。好きなんだろ？作るの。
　ヤドランカのお菓子はホントにおいしいと思うよ。
　出来ればPSを払いたいぐれェには。ま、今は受け取っちゃくれねーだろうけど」

彼女とエユプが揃って出迎える、甘い匂いのするお菓子屋さん。
間違いなく男は常連になるだろうなと、笑い交じりに肩を揺らす。
例えばこのバクラヴァもロジャタも、食べるだけで幸せになる、そんなお菓子であり。
それこそが甘いものに一番必要なものだと、前に誰かが言っていた事を思い出す。

「おれは…将来の夢、かァ。
　あちこち色んな世界に行ってみたいとは思ってたけど、
　それが夢かっつーと微妙なトコだなァ。今まで食べてきたモンを纏めて、
　紹介本？みたいなヤツはやってみたいとは思ったっけね。自分用も兼ねてだけど。
　ほら…あるだろ、そーゆー本。このお店は此処にあって、どんな料理があって…って」

バクラヴァの残りを示されて、じゃあひとつ、と皿を差し出す。
夢。考えた事のなかったそれを改めて思案するよう、湯気ののぼるカップを傾けた。
またまだ、考え知らねばならぬことは多い。自分がやれる事、やれない事———

この時ばかりは、長い寿命を持つ生き物で良かったと、男は思った。

こちらが思わずこぼした笑いに、彼が不思議そうに首を傾げているのに気が付いて。
すぐに、なんでもないのと取り繕った。

言いかけて、言葉を切る。
この先何がどう変わるかわからない、そんな渦中に身を置く今、口にすると少しばかり悲壮感の出てしまう、そんな言葉。
不用意に口にしてしまったそれを振り払うように、ふる、と小さく首を振って、また笑顔を作り直す。

そして差し出した、ひとつぶ。
ちょっとしたほんのりと染まる彼の頬に、己の悪戯心が成功したのを見てこちらも淡く頬を染める。
彼の白い歯の奥へとキャンディが受け止められるのを見て、己も口内の花を舌先で転がす。
甘酸っぱい、レモンのような味がした。

歌うように呟いて、羽根ペンを持った右手を伸べる。
羽根ペンに宿った光のひとつが飛び出して、くるくると回り始めた。

ひとつ、ふたつ、みっつ。
回るたび、辺りの温度が下がっていく。
吐く息が白くなる。ちらちらと、白いものが落ちてくる。
星まで凍らせるような冷たい風が、サッと下から上へと吹き上げた。
目を開けると、いつから立っていたのだろう。
そこには、白い肌、赤い反物を携えた女がいた。