頭一つ分ほどの身長差に、見上げるのが気に食わないようで何とか見下ろそうと彼はよく仰け反る。
いずれバランスを崩して転びやしないかと要らぬ心配をしつつ、罵詈雑言をあしらうのも、早々日課の一部になってしまった。
しかし一度、別のことを考えていて上の空でいたら、つま先で足の脛を蹴られた。
流石に痛かったので文句を言おうとしたら、平手打ちが一発、綺麗に頬に入れられ、逃げるように姿を消した。
土気色の表情を確認することは出来なかったが、
「こんな風にした責任ぐらい取れ」そんな幻聴が聞こえてきそうな細い肩が震えていたのがやけに印象的で、どうにも引っ掛かる。

無視されたことにショックを受けていた。
無視するなと、女々しい駄々を捏ねているようだった。

"そういう風"にした実行犯はアマハルであるが、そのアマハルが実行に移した動機は間違いなく自分である。
自分のわがままを通そうとし、アマハルが妥協点を探った結果が彼という存在を作ってしまった。
元を辿れば自分が発端なのだ。彼にはアマハルよりも自分の方が特別とすら言えるかもしれない。

アマハルは自分に聞いているのだ。事前に「作るぞ」と宣言し、許可を求めている。
「本気で嫌がることはしない」と明言したアマハルに対し、「本気で拒絶」をしなかった。
言葉ではいらない、と言ったものの、まるっと人格を否定した「人形遊び」に下種な期待をしたのは事実である。
で、あるならば。
過程や人倫など脇目も振らず、自分を"助ける"ために、危険に対する保険を優先するのはごく自然の流れと言える。
アマハルと二十年以上付き合って、「分からなかった」は通らない。
相手がこちらの腹を正しく汲み取ったように、曖昧に二択を掲げれば、どちらを優先するかなど分かり切っていた。

自分が歪んでいることは自覚しているが、どこがどう、なのかがよく分からない。
ただ決定的に、その自覚は自分が善人ではないことを保証している。
こうなってしまったことも「仕方ない」としか思えないのは、そういうことだろう。

行き場の無い愛憎の感情が常に精神を歪にしている。
憎悪の対象に助けてくれとは間違っても言えず、ただ崩壊を防ぐ逃げ道を求め喘いでいた。
煮えたぎるハラワタから、気泡のように吐き出される暴言は苦悶と慟哭の訴えに等しい。
役に立ちたい。必要とされたい。棄てられたくない。愛されたい。
願いは満たされない。苦痛が満ちる。絶望が這い寄る。
憎い。辛い。悲しい。ひとりで抱えるには正気ではいられない。

　あなたのせい。
　あなたがいるから生まれたけれどあなたがいるからあたしはこんな有様。だから嫌い。

あなたが断らなかった。だからあなたのせい。あなたがいなければ良かった！
——しかしいなくなれば棄てられる。
与えられた役割を果たさねば棄てられるから、理性は手放せない。
平静を保つために千切れそうな理性を鎖で縛り上げなければならなかった。
凶器を手にしてなお平静を保ち、自制する方法は——

相手を下に見ること。優位に立っていると錯覚すること。
奴隷という底辺の立場でありながら主人である者を見下すという、子供染みた優越感で何とか抑え込もうとした。
本来成り立つ筈もない矛盾を抱えたお粗末な逃避は、しかし何ゆえか成立してしまった。
だから縋り続けることにした。
だから彼は無視されることを嫌がるあまり、脛を蹴り、平手を叩きつけるという暴力に出た。
そこで逃げたのは、それが衝動的な行動だったという証左だろう。
暴言を吐き散らしこき下ろして上に立つ、その体制の崩壊は精神の崩壊につながる。望まぬ行動だった筈だ。

ヨドが彼の暴言を真に受けて憤ってしまうことが最大の懸念であるが、
サディスティックな性癖からくる無意味な行為ではないと説明すれば、優しい彼女は納得はしてくれるだろう。
河童の話を聞くに、彼個人に悪印象を持っているわけでは無さそうだし、彼もまた同様のようだ。
ヨドの味方であるが、しかしその結果彼を否定してしまうのは避けたい。
アマハルは元より、河童と関しては心配していない。
過度なセクハラに目を瞑れば、確かに優秀なのだ。
無意味に悪い方向に持っていく真似はしないと信頼している。
トモは——ヨドに語る際、同席させておこう。
彼女の反応は未知数であるが、基本的に気ままな猫である。危害が無いと分かれば問題ないだろう。
クマちゃんとおケツ、和人形はそもそも関わり合いに興味が無いので放置する。——と。

思考を切り上げ息を吐く。
ふと痛みに蹴られた脛を見ると、青く内出血してした。
また遠慮なく蹴ったな、と先ほどとは別の、疲れた溜息を吐いた。


＋＋＋

ちなみに。彼はあの後何事もないように接してきた。実に厚顔だ。
思い違いだったかと適当に流していると、また不愉快そうに表情を崩した。
また蹴りか平手打ちが飛んでくるのかと身構えるが、
しかしふっと顔を落とし(おそらく蹴られた箇所に浮かんだ青アザを見たのだろう)、小声でごめんなさいと謝った。
そのことに意外そうな表情を浮かべてしまった為、直ぐにヒネくれた顔に戻ってしまったが、
中々面白い顔が見れたと笑ったら、ぎりぎりと奥歯を噛み締める音が聞こえそうなほど口をへの字に睨んできた。
頭のウサ耳を横倒しにしてバカだのウスノロだの謝って損しただの、子供のような悪口を乗せ肩を怒らせた。

あぁ、可愛げのない面倒臭いガキだな、こいつ。

別のチラシがぺろっと出てきました。事典亭とか書いてあります。