侵略の速度は、まさに炎が平原を焼き尽くすが如しだった。

無理もない。何せまっとうな抵抗をする事ができる者はほとんど存在しないし、そのわずかに存在している者は魔王自らが出陣し、地域ごと消し去った。
比喩ではなく、文字通りその地域一帯を完全に、完璧に、徹底的に。文字通り草木一本残さぬ程に。
該当する地域を丸ごと、己の攻撃魔法で消し去ったのだ。

それでもなお世界が平和になったと信じて疑わない人々は、一時期こそ騒ぎはするものの、やがて忘れられていく。
かつての彼等の功績が、都合の良い"物語"として歪められていくように。

「……しかし分かりませんね」

しきりに首をひねるのは、この箱庭を生み出した神モドキ。
何が不思議なのかと問うと、何がきっかけだったのかが分からない、と返した。

「私の予想では、後数百年は持つものだと思っていました。
　彼女は私に反抗心を抱いていましたし、人間に絶望したわけではない。
　いずれは衝動に負けて自我を失い、魔王システムとして行動すると思っていたのですが…」

こんなに早いとは思わなかった、とどこか嬉しそうに語る。
嬉しそうなのは、彼にとってはイレギュラーだからだろう。彼はこの狭い箱庭しか頭にないから、この程度の狂いですらイレギュラーとみなすのだ。
そう、彼は自分が優れていると信じて疑わない。
本人にそういえば違うと否定するだろうが、彼に相対する全員は一目でそうと分かるだろう。

実験などは名目だ。彼はただ、神を騙る自分に酔っているにすぎない。
自分自身に酔い痴れる為に、その為だけにこのシステムを作り上げて、そして機能させている。
故にこの箱庭に終わりはない。もし何かの悪夢か奇跡が重なって真理を得て、本当の神としての力を得たとしても、きっと彼は箱庭に拘るのだろう。
彼にとって世界は広すぎて、無秩序すぎて、とても自分の理想にかなうものではないから。

「……絶望、したんでしょうかね。都合のいい物語に」

「ふむ？　それは、どういう事でしょう？」

「彼女の辿った悲喜劇、功績、道筋は、彼女にとっては人生でした。
　だからこそ悩み、苦しみ、喜び、忘れ、乗り越えようとした。物語や歴史には終わりがあるけど、彼女の人生は継続しているから」

「それを脚色という名の下に都合よく変えられて、侮辱されたからだと？　それで人類滅亡は、彼女にしてはいささか短絡的すぎると思いますが…」

　　　　　　 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
「いいえ。終わらせられたからだと思います」

分からないのか、彼は首を傾げる。

「彼女は生きている。生きて、今も悩み苦しみ乗り越えようとしている。
　しかし、当たり前といえば当たり前ですが、彼女以外の人々にとってそれは何の価値もない。
　だから彼女という物語は今なお続いていても、平然とそれを無かった事にできる。都合よく変えられる。語り継ぐ事さえできる。
　何の悪意もなく。当然のように。罪の意識すらなく。他人の人生を踏み躙れる」

それは、此の世でもっとも強大な悪ではないだろうか？
善悪を持ち、情を持ち、法を敷き、正義と悪を定めたにもかかわらず。
悪という認識すらなく、人類すべてがそれを成すのだ。

彼女の人生すべてを、これまでの歴史を否定されただけに留まらない。
彼等は一片の罪もなく彼女の生存すら"無かったこと"にしたのだ。
そして、やはり罪もなく、彼等は彼女の生存を無かった事にし続けるのだろう。

「きっと彼女は、それを許せなかった。私は今も生きている。生きて苦しんでいるのだと。
　それを理解させてやりたくなったのではないでしょうか」

「……分かりませんね。それの何がそこまで許せないのか。
　森に魔女がいて、しばらく顔を見せなかったから死んだと扱われ、あれは森の妖怪か何かだと恐れられて。それで出てきたら妖怪だと罵られる。
　……似た話はよくある事じゃありませんか。魔女は不愉快でしょうが、それで人類を滅ぼそうなどと考える程に絶望するとは思えない」

「…魔女は、勇者じゃありませんから」

世界を護り平和を護り、この手で掴んだからこそ見える地平もある。
だが、見えた地平が美しいものであるとは限らない。

「それに、多分勇者が…ディラックさんが死んだ時から、ずっと思っていたと思いますよ？
　こんな世界滅ぼしてしまおうか、という考え。ただ、我慢してきただけです。
　彼女は優しいですからね」

「…我慢が限界を迎えた、なら私にも分かりますが…。
　ウム、どうやら私には見えないものが見えているようですね、貴方は。
　やはり凄いお方だ」

答えはしない。
今は、少し、聞きたくない。
代わりに彼女の声へ耳を傾ける。

泣いているような、猛っているような、振り払うかのような、断末魔のような、叫び声。
世界を呑み込む魔王の詠唱は、ひどく悲しげに聞こえた。

シ・ドゥはそれだけ言うと、ふたりに背を向けて歩き去ろうとする。

殊更不機嫌そうに、けっ、と吐き捨てる。

半信半疑の目を向ける。

ただ、そうだな、と、表情を緩めて。

　結局のところ、彼女はお人好しなのだろうと思う。

　彼女の「一番嬉しかった話」を、静かに聞く。
　そっか、と呟いて、