「かくして、魔王フィーグルは生まれました。ようこそ、歓迎いたしましょう」

「…………」

半透明の部屋の中に、私はいた。
足下も、天井も、壁も。すべて半透明で、上下左右どこを見ても、その向こうには一面の星空が広がっている。
試しに床の感触をブーツ越しに確かめると、まるで硝子のような質感。けれど、何処かそれとは違う。
けれどそれは、さほど不思議な事ではないのだろう。
この男が目の前にいるのなら、あらゆる不自然が自然となる。

何故か？
私はその答えを知っている。
けれど、それを脳裏に浮かべるのは、ひどく躊躇われた。


「……何の用かしら。わざわざ挨拶に呼んだわけじゃあないでしょう？」

「いえ、それも目的の一つですよ。魔王フィーグル。
　此処まで苦難の道を辿り、そして私の予想を裏切り魔王となった貴女に敬意を示したい」

慇懃無礼、という言葉がよく似合う。
まるで喜劇に出て来る道化師がそうするように、男は大袈裟な身振りと口調でそう言った。
けれど、私に向けられたその瞳は、実験動物か何かを見る様な目だった事を、私は感じる。

「そして、そのついで…というのもなんですが。貴女に説明をしたい事が、２つ」

「…何かしら」

私は先を促す。そうしなければならない、という本能の叫びを感じた。
私はこの男の思い通りに動かなければならない——そんな、強迫観念じみた。

「ええ。…一つは貴女が持つ、その能力について」

「…能力？」

魔王となって、桁違いの魔力と身体能力を得ている。
私の知らない魔法の知識も、自然と流れ込んでくる。
それは、能力ではないのか。

「魔王というのは中々に重労働ですからね。
　半強制的に魔王にされた上に、何の見返りも無いというのはあまりにも不条理だ。
　そこで私は、魔王となったその代価——私は『魔王代価』と呼んでいますが。
　この世界のあらゆる法則を書き換える、権利を与えているのです」

「……権利、ね」

「ええ。…せめてもの、お詫びに」

そんなもの、いらなかった。
私は、みんながいてくれれば、それで——

「……それで。私にあるのは、どういう能力なの」

私の心を他所に、口は男へ話の続きを求める。
しかし男は、それが用意された言葉だというのに、大袈裟に首を横に振って。

「わかりません。それは、貴女が最も強く望んだ能力ですから。
　それを、これから貴女に尋ねたいと思います」

「…………」

「さあ。魔王フィーグル。貴女は何を望みますか？」

一瞬、この男を殺す力を求めよう、と考えた。
だが。

「さあ。なんでも、いいですよ？」

男の顔を見て、それは無駄だと悟る。
仮にそれを求めれば、男は自分自身を殺し得る力を、躊躇いなく渡すだろう。
その上で、男と戦えば、きっと私は負ける。

あれはそういう目だ。己が絶対であるという究極的な確信。
敗北の可能性など万一もないという。
考えてみれば当然の事だ。
「全てを貫く究極の矛」を躊躇いなく渡す相手が「全てを防ぐ究極の盾」を持っていないはずがない。

「……私は」

それに、この男を殺したところで、それは八つ当たりでしかない。
殺したとして、私に何が残るというのだろう。
それなら、私が本当に欲しいものを望むべきではないだろうか？

私が本当に欲しいもの————そんなもの、死んだ仲間以外に有り得ない。
そうと決まれば、決心は早かった。

「……死んだ仲間を。返して欲しい」

「…良いでしょう」

少しばかり残念そうな顔を浮かべながら、男は頷く。
期待外れの答えだったのだろうが、そんな事は知った事ではない。

「では、魔王フィーグル。貴女に与える魔王代価は『終焉の否定』こそが相応しい」

「……死の否定。蘇生するって事？」

「結果的にはそうなりますね。
　…ただし、この力は強大故に、1人——人でなくとも構いませんが——に対してしか使えません。
　まあ、また使えば良いだけの話ではあるんですが」

「…それでいいわ」

「はい。使い方は追々、理解すると思います。
　……それと、もう1つですが。貴女に対してお願いがありまして」

お願い。不思議と従わなければ、という強迫観念は起きない。
強制力の無い自由意志で選択できるもの、という事か。

「何かしら？」

「ええ。——この世界を。人間を、滅ぼしてほしいのです」

ゴミを捨てて欲しい。そんな事を伝える様な気軽さで、男は言った。

「…断る、と言ったら？」

「構いませんよ。お願いですから」

あっさりと、男は言う。

「今はダメでも、後でその気になったならしてくれても構いません。
　未来永劫、しなくたって構いません。
　貴女にお任せしますよ。全てね」

笑みを深めながら、男は答える。
——今度は、どうやら期待通りの答えを出してしまったらしい。

「…なんでそんな事、させるのかしら？」

「私の探し物のためですよ、魔王フィーグル。
　魔法使いである貴女ならば分かってくれると思いますが」

男が手を翳すと、背後に、私が立ち去った後の城の風景が浮かぶ。
首の無い王侯貴族達の死骸を魔物達が民衆へと投げ出している。
私がそうしろ、と言ったからだ。

あの中にディラックの父王の死骸はない。
アイツだけは、私が逃がしたから。

「…これが探し物？」

「いいえ。これも1つですが。
　私が探しているものは、世界の真理です」

風景が移る。
玉座で顔を伏せている男が浮かび、森の中、エルフの民の流儀で行われた葬儀の光景が浮かび、祈りを捧げる老聖者の姿が浮かんだ。

「私はあなた達の世界を作り。あなた達はそこで繁栄し、生きて、死ぬ。
　それを俯瞰で見る事で、何かを得られるのではないかと思いましてね」

「……それじゃあ、なんで滅ぼすの？」

「文明はいずれ停滞するからです。
　戦争などがあったとしても、それは世界から見れば小さな寸劇に過ぎない。
　大きなドラマなど、早々あるものじゃない。
　だからこそ、必要なのですよ。世界を滅ぼし得るものが」

世界を滅ぼし得るもの。滅ぼそうとしたもの。
それは。それは

「まさ、か…」

「そうです。魔王とはそういうものです。
　停滞した世界に、活力を与え、ドラマを生み出す舞台装置。
　そして勇者は、魔王に対抗できる唯一の希望。
　人間は勇者をどうするのか？　魔王とどう向き合うのか？
　魔王は何を成すのか？　勇者は何を求めるのか？
　無数の人々の無数の選択と、それによって生まれる数々のドラマ。
　その群像劇を俯瞰し、計測し、真に理解したその時——私は真理へと至れるでしょう。
　集合的な、普遍的な無意識。人間の持つ思念の集合体にして究極形。アカシックレコードの一端へと」

「……そんなものの。ために…！！」

「おや、ご理解いただけない。それは残念だ」

さして残念そうでもない様子で男は言う。

「であれば、私はもう貴女に用はありません。
　さようなら、魔王フィーグル。次は貴女が世界を滅ぼした、その後に会いましょう。
　次にどんな世界を作るか、貴女の意見も聞いてみたいのでね」

「ま——」

待て、と言おうとしたその言葉は、闇の底へと沈み込んだ。

だから定住することをやめた。
旅暮らしの道を選んだのだと、そう言った。

すまない。
声を漏らす。

それと、と瞼を上げて、

　様子を見兼ねてと言うか何と言うか、遂にそう訊いた。

　そう望んでも良いのなら。小さく、笑う。