崩れ落ちる黒騎士。
魔力を空にした私は、ぐらりとふらつく足元を何とか立て直しながら、黒騎士へ近づく。

「……」

魔法の過使用で痛む頭に構わず、震える手で兜を外す。
予想に反して私の力でもあっさりと外れたその下には。

「…………なんで」

力ない声が、私の喉から零れ落ちる。

「なんでよ。どうしてあんたと戦わなくちゃいけないのよ…。
　私、あんたを、助けたくて…！
　グリフと、ヴィルムも、私が。私が…っ！！」

兜の下にあったのは、ディラックの顔だった。
どこかで気付いていたはずなのに、覚悟はしていたはずなのに、こうしたのは自分だというのに、顔を見ると、安堵と後悔と愛しさと憎しみと。色々な感情が混ざり合って、自分でも何が言いたいのかわからない。
ずっと堪えてきたはずの涙が、今更のようにぼろぼろと瞳から零れ落ちる。
泣きじゃくりながら、子供のように喚く私の頬に、そっと黒金の指が触れる。

「……ごめんな」

「ディラック…！！」

まだ、生きていた。
待ってて、と回復魔法の詠唱を始める。簡単なものだが、私でも使用はできる。
先程尽きた魔力は徐々に回復をしている。
回復魔法をこれから連続で唱え続けても、お釣りが来る程だ。

「…………なあ」

掠れる声で、私を呼ぶ。
何かと見下ろすと、不意に首筋に冷たい鉄の感触がして、彼の胸元へと押し付けられた。
一拍遅れて、抱きしめられたのだと気づく。

「ちょっと、そういうのは後でいくらでも」

「……ここで、死なせてくれないか？」

途切れた回復魔法を再度唱えようとしたところで、ディラックの申し訳なさそうな声が聞こえる。
彼の顔は、見えない。頭をぎゅっと押さえつけられていたから。多分、見られたくなかったのだろう。

「…………。……なんで、よ」

その言葉だけで何となく分かってしまったけれど、聞かずにはいられなかった。

「……それをやると、また戦わなくちゃならない。俺は……おまえを斬りたくない」

「…じゃあ、斬らなきゃ良いでしょ。あんたは負けたんだから」

一瞬の沈黙。彼は首を、横に振ったような気がした。

「……それは、できない」

「…あんたが、勇者だから？」

「それは違う」

はあ、と深い呼吸が一つ。

「……父さんが、初めて、俺に言ってくれた。
　国の為、先祖の為、民の為。自分を恨んでも構わないから、どうか魔王を討ってくれと」

「…………」

「……すまんな。お前の言う通り、父さんはろくでもない親だったんだろう。
　お前の事を考えたら、突っぱねるべきだったし、そうしたかった。
　でも……」

「……わかってる。わかってるから、ディラック」

「——俺には、あの人を裏切れなかった。
　初めて、期待してくれたから。それを裏切る事は…できなかった」

「もういいから。ディラック」

「俺は…ろくでもない男だったよ。自分の為に、お前を——」

「ディラック」

強い口調で、話を切る。

「…………分かったから。あなたが選んだ事なら……諦めるから。
　だからせめて、死ぬまでは私のものでいてよ。
　謝ったり、自分を下らないなんて言わないでよ。私、謝られながら死んでほしくない」

精一杯の強がりは、果たして彼をどれだけ騙せたのか。
彼は

「……悪かった」

それだけ言って、手を緩めた。


——ここから数分の間、色んな話をした。
グリフとヴィルムの顛末。お互いが離れた後、何があったか。どんな生活をしていたか。魔王の力や、魔物達はどんなのがいたか。
それから、とりとめのない事も。野営の見張りの時、二人で声を潜めて話した様な、くだらない事を。

後の方は、私ばっかり話していた。
それでもディラックは頷いたり、笑ったり、反応を返してくれたが。それも徐々に無くなってきた時。

「……なあ、二つ、頼んでも良いかな」

「……ええ。何？」

返す私の声は、震えていたかもしれない。

「……父さんを、恨まないで欲しい」

「……とんだ孝行息子ね。いいわ、善処してあげる。……もう1つは？」

「助かる。…もう1つは…俺の事は忘れて、とは言わない。
　何をしても、何が起こっても俺はお前を恨まないし嫌わない。
　だから、すぐじゃなくて良い。
　……幸せに暮らしてほしい」

一息に言い切って、最後にふう、と大きく息を吐いて。

「……悪い。先に、寝るよ」

「…………。おやすみ、ディラック。また逢う日まで」

最後に彼は優しく笑った…様に見えた。
…それきり彼は、二度と目を覚まさない、深い眠りについた。






「…………」

それを見届けると、私はゆっくり立ち上がり、先生を見る。
先生の顔は、苦悶に歪んでいる。
対して私は、鏡を見たわけじゃないがきっと今、酷い顔をしているのだろう。

「……先生。私を、止めますか？」

「…何をする気だ？」

「この国の王に、ディラックにした事の報いを。
　……それと。ディラックのお父さんに、事の顛末を伝えます」

先生は無言で、杖を構える。

「……先生も阻むんですね」

「ああ、それが役目だからな」

私も杖を取り出し、その先を先生へ向ける。
それを見て、ふっと笑い。

「……直接やり合うのは卒業試験以来か。
　お前は俺がかつて育てた中で、最も勤勉で、最も優秀で……最も魔法使いらしくない弟子だった」

「…………」

「…お前のような弟子がいて、俺は幸せだったよ」

それは先生なりの遺言だったのだろう。
その言葉を最後に、殺意が膨れ上がり、詠唱を始める。

「…あなたが師匠で、私も幸せでした。先生」

私は右手を前に突き出し、無詠唱で虚無空間を発生させる。
軋む空間は先生が張った魔法障壁を瞬時に消し飛ばし、そのまま先生を見えぬ程に粉々にした。

「…………」

悲しい、という気持ちはもう無い。
——この身は魔王なのだから。

「…………魔法の名」

そう。それはいつか先生が教えてくれた、古いまじない。
魔法使いは生まれた時に得た名とは別に、魔法使いとしての道を踏み出した時——新生した時に、師匠から新たな名を得るのだと。

私は魔王としての道を踏み出して人間である事を捨てた。
…ならば、使う事の無かった名を、今こそ名乗ろう。

「フィーグル」

「私は…魔王、フィーグル」



これが、始まり。

と、ナナシが深く考えずに説明を流そうとした時、フィーグルによる"余興"という念押しと
深いことは考えるなという言葉が耳に引っかかる。
この林檎は補われたのでもなく、戻されたのでもなく、齧られた事実が無かったことにされた。
失われた事実が無かったことにされた。
つまり、これが、林檎でなかったとしたら………？

と、ナナシは何を聞こうとしたのだろうか。
縋るような、希望を持つような目でフィーグルに言葉を伝える前に手の内の林檎が痕跡も残さずに消え失せる。
それを見てナナシは　ぁっ…　と小さく声を出し、力が抜けたような顔をした。
そしてしばし押し黙り…

不意に口を開きそう言うと、ナナシは返事を待たずに空を飛んでいこうとする。
その表情も、その声も先ほどに比べて明るさはなく、意気消沈しているように見える。

　何が起こったのかわからないままに、唇を塞がれる。
　が、すぐにフィーグルの身体を押し返し、一度離れる。

　かなり慌てている様子。
　この様子では吸魔どころではないだろう。
　気心の知れた仲間とはいえ、やはり恥ずかしいのだ。

ただ、と瞼を伏せる。

ひどく、遠くを見ていた。

怖かった。
淡々とそう零した。