城内。兵舎に初めて進行した時のことである。

　呻くようにそう呟くと、数多の首を持つ蛇怪——ヒュドラのエンブリオは沈黙した。

　それを確認すると、ゼゼはふっと息を吐き得物である大爪を下した。その様子を見て、彼と契約した八体のエンブリオも同じく、各々構えを解き始める。
　
　兵舎での初めての遭遇戦は完勝だった。
　しぶとさとばら撒く毒は厄介ではあったが、今の自分たちの敵ではなかった。
　毒が回りきる前に潰す。起き上がるなら尚潰す。
　苛烈に攻撃を重ねることで倒した敵に向けて、ゼゼはすっとそれを差し出す。

　その赤き花弁のネクターの花。ヒュドラと契約しようというのだ。

　すぐ隣でバリオの素っ頓狂な声が上がると、ゼゼは「ああ」と短く頷いた。

　軽い調子で流したのはベロキだ。先日の一件以降夜の狩りには出ていないが、特に文句も言わず、今回もまたゼゼの仕事を手伝っている。

　貧弱、という言葉にゼゼはプレソへとジロリと視線を向ける。向けられたプレソはと言うと、明後日の方を向きつつ二マリと笑っていたが。
　

　と、慰められたその直後。

　なにやら機嫌を損ねたのだろうか。パキラはコリトの元に飛ぶとすぐ、自身の体の角を使ってコリトを小突き始めたのだった。

　談笑を続けるエンブリオたち。
　その輪からパキラだけが抜け出して、めそめそとゼゼの元へと飛んくると。
　その固い石板の体を、ぐりぐりとゼゼの背中に押し付ける。
　その様はまるで置いて行かないでとすがりつく、べそっかきの子供のようでもあった。

　嘆息交じりにゼゼは呟くと、背中に引っ付くパキラを引き剥がした。

　黒く硬い体をあやすように軽く撫でてやる。するとパキラは何事もなかったかのように、またふらふらと飛んでいく。

　仮にも敵地であるというのに、なんとも悠長なものだ。
　しかし兵舎という割には、王軍の兵士たちは影も形もない。
　単にここが序の口というだけか。ここから先に踏み入れば、何か見えてくるかもしれない。
　進行を続けよう。そう思った時だ。
　低く不気味な呻き声が、ゼゼの目の前から聞こえてき。

　倒れ伏していたはずのヒュドラ。その首が今、のそりと再び持ち上がる。
　瞬間、ゼゼは再び爪を構えた。

　それとも、この短時間の間に回復したというのか。

　かざしたネクターをヒュドラへ近づける。このまま行けば、この蛇の怪異との契約が満了する。
　だがその最前、ゼゼの脳裏に甦る言葉があった。

　ゼゼの手が止まった。ネクターの花を引くと、値踏みをするような視線でヒュドラを見る。

　とぼけた相手の言葉をゼゼは一蹴し、一層鋭い視線でヒュドラを睨む。
　相対した敵たちの言葉。その中に時折ある、王を肯定する言葉は、以前から疑問に思っていた。
　それにヒュドラと同時に遭遇したリッチという怪異の言葉も気になる。
　
　目の前のヒュドラも意味深な発言をした以上、ある程度その辺りの事情に通じているに違いない。
　この好機を逃がすまいとゼゼはヒュドラの言葉を待つが。

　返ってきたのは、ヒュドラの顔と再生した首たちが漏らす低く不気味な笑い声だった。

　実に浅はかと、ヒュドラは笑うことをやめない。

　笑いながらも、次々と甦る首たちが声で囲う様にゼゼを嘲り続ける。

　ハハハハ クヒヒヒ　　　　　　　　　　　　　ふひゃはははは

　　　　　　クククク　　　　　ヒヒヒィヒ　　　　　　　　ハハハハハ

　　　はっはっははあ　　　　はは　　　　あははは　　　　ふふはは　　　　　　クククク　　　　
　　　　ケケカ　　　　　　　　　　　　　　　ははははははは

　再生する首たちの幾重も重なる嘲笑。その声は粘つく檻の様にゼゼを包囲する。
　
　その嘲笑の声はエンブリオ達の元へも届いていた。

　おもむろに。コリトは妖蛇の元に足を向ける。
　それに追従するように、ほかのエンブリオたちもそれぞれ主の元へと向かう。

　先陣を切るコリトとバリオ。二体は今にも飛びかかりそうな空気を纏いつつ歩く。

　だがそれを、

　ゼゼはひとつ頷くと、二体の歩みを制するように手を翳す。そして。

　無造作に腕を振る。
　その軌道の先。再生した首の一つを、剛爪が切り落とした。

　ヒュドラの全身がびくりと痙攣する。苦痛にゆがむ、顔に対しゼゼは冷厳に言い放つ。

　今度はどれを切り落とされたい？　ゼゼは妖蛇へと肉厚の爪を突き付ける。

　ゼゼが己の利害のためならば意外と手段を問わないことを、ベロキは身をもって知っていた。

　これ以上の問答は無意味。そう判断すると、ゼゼは今度こそネクターの花をヒュドラへと向けた。

　本気で首の全てを落とすつもりではあった。しかしこの様子では不毛な作業でしかない。
　そう判断し、ゼゼは契約を迫る。従属下に置いて、改めて聞き出すことにする。

　対峙するヒュドラは、赤い花弁を一瞥し。
　うっすらと、どこか諦めたように笑った。

　打って変わったように大人しくなる。妙な感じだ。これまで契約した奴らとは、だいぶ雰囲気が異なる。
　城内だからか？　それともコイツ自体が奇妙なエンブリオなのか。

　疑念を覚えつつネクターの花をヒュドラに向けてかざす。
　その時、ヒュドラは言った。

　そして、ネクターの赤い花弁が散る。

　もたげられたヒュドラの首が。

　ゼゼの肉体へと、ズブズブと沈み始めた。

　ゼゼとヒュドラの異常に、駆け寄るエンブリオたち。

　苦痛の表情を浮かべるゼゼ。その肉体に埋まっていくヒュドラの首を抑え、引き抜こうするがまるで抗えない。
　1本目の首が侵入し切ると、ゼゼの表情が一層険しいものとなる。

　だがそうしている間にも、三本目の首がゼゼの中に入り込もうとしている。

　エンブリオらは必死に抵抗を続ける。だが、ヒュドラの首は四本目、五本目とゼゼの体に苦痛を与えながら埋まっていく。

　そして間もなく。抵抗の甲斐もなく。すべての首がゼゼの中へと入りきった。

　前のめりに倒れようとするゼゼをプレソが支える。間近で吐き出される息は熱く荒い。その苦しげな呼吸に混じり、ゼゼのうわ言のような声が聞こえる。

　コリトに号令をかけるとすぐ、バリオはプレソが支えた状態のゼゼの背に鉄の指を伸ばす。
　そのまま結びを解き、ゼゼの背中を露にする。

　そして一同はそれを目撃する。

　エンブリオたちが注視するゼゼの背中。

肩を竦めてみせる。
続く問いには、嗚呼……と頷いて見せて。

指で軽く弾いてみせれば、取り付けられている蒼い宝石が揺れる。

だからこの世界に居るのもわかっている、と。
そう説明する青年である。

薬をもらったから、その恩返しだな。
そんな呟きを。