普通、こういうときの語り出しは、
　曇りガラスのようにぼやけた視界のピントが親しい人の声で合うとか、
　過去の懐かしい映像の回想から現実へと引き戻されるとか、だと思う。



　でも、そんな風に声をかけてくれる親しい相手なんていないし、
　思い出して楽しい気持ちになれる昔話もない。
　そんなあたしの目はじつにはっきりと機能していて、
　視界は思いのほかくっきりと色鮮やかだった。
　夢かもしれないなんて疑念をはさむ余地もなく、
　あたしは今見ている世界が現実であることを否応なしに自覚させられる。

　色鮮やかとは言ったけど、目の前にあるのは一面の白。
　らんらんと輝く照明が強烈な光を真下のあたしに叩きつける。
　きっと、この強すぎる刺激があたしを覚醒させたのだろう。
　高い天井も、凍った湖面を思わせるつるつるの石造り。
　本来明るさや前向きさをイメージさせるはずの色なのに、
　あたしの前に鎮座する白には、まるで何かを諦めろと言わんばかりの圧迫感があった。

　首が、手足が、いや全身が、ぴくりとも動かない。
　全身麻酔は何度か経験したけれど、あれとは少し違う感じ。
　動かないというよりは……無い？
　あたしの意識だけがこの場に存在している。そんな感覚。
　背中からは身体全体を支える柔らかな感触がたしかに伝わっているのに、
　その支えられている身体の実体感がない。

　熱でもあるのだろうか。
　ぼやけたままの頭のなかは、いつしか空想で埋もれていく。
　きりきりと音を立てながら巻き戻される脳内の映像。



　白紙に穴が開き、闇がにじみ出る。
　いつしか全身をつつみ、そのなかにゆらゆらとたたずむ。
　不思議と、居心地は悪くなかった。

　温い水が髪をびしょびしょにする。
　口の中にも入ってくる。苦い。鉄の味だ。
　ぼんやりと赤く染まる視界と合わさり、血が降ってきたのだと分かる。

　無限に広がる赤があたしの胸にあいた傷跡へと戻っていき、
　目の前
　　　　　　　に　　は
　　　　　　　　　　あ　　　　た
　　　　　　　　　　　　　　　　　　し
　　　　　　　　　と　　　　　瓜
　　　　　　　　　　　　　　　　　　二
　　　　　　　　　　　　つ
　　　　　　　　　の　　　　　女
　　　　　　　　　　　　　の
　　　　　　　子　　　　　
　　　　　　　　　　　　　　　が





　あわてて飛び起きた。
　そう、飛び起きたのだ。

　あの子の姿を見たとたん、あたしに走った電流。
　神経という回路が、血流という骨組が、またたく間に構成されていく。
　あの子の存在が、あたしを起こすために必要な刺激の中核だったのかもしれない。
　あたしはまだあの子について何一つ知らなかったはずだけど、なぜかそう直感できた。

　あたしは何も着ておらず、身体のあちらこちらから細いチューブが伸びている。
　そこで視界から得られる情報はシャットアウトされた。



　骨を金槌で叩き割られ。
　内臓を万力で押し潰され。
　肉を鋸で切り裂かれ。
　皮膚を鑢で削り取られ。



　神経が繋がったということは、さまざまな感覚が伝わるようになったということ。
　瞬時に脳内を駆け巡る最悪のイメージの「元」が痛覚だということを理解するのに、
　あたしはかなりの時間を要した。それほどまでに未体験すぎる感覚だった。

　起こした腰に生じる爆発的な苦痛。声も出ない。
　反射的に身体を仰け反らせてしまい、さらなる激痛の渦が全身に巻き起こる。
　痛む場所へと反射的に腕が動き、あらたな絶痛が瞬間的に炸裂する。
　普通の人間ならたちまち気絶してしまうのかもしれないけど、
　生まれたころから痛みへの訓練を受けてきたあたしの意志は、
　悲痛にもここでの意識の暗転をけっして許そうとしない。
　痛い。痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
　どうしてあたしがこんなにも痛い思いをしているの。
　辛いばかりの人生だったけど、それでもこんなにも痛いことは起きなかった。
　死んだときもこれほど辛くはなかったはずなのに…………？





　死んだ？





　そうだった。





　あたしは、死んだんだ。





　なら、今ここにいるあたしは何？





　最後のピースが、埋まる。
　全身の痛みは続いていたけど、不思議と耐えられないものではなくなっていた。
　和らいだのではなく、どこかあたし自身から切りはなされた感じ。
　ゆっくりと目を開けると、あの男があたしを見下していた。

　定型文にも程があるだろ。もう少し捻れクソジジイ。
　あたしの口は動かなかったし声も出なかったけど、
　そんな軽口が思いつくほどに頭は冷静だった。
　でも、そんな風にいられたのも、あいつが手元の端末を操作し、
　今のあたしの姿を、顔を、映し出すまでの間だけだった。

　あたしが髪留めを弄っていると、ルチルが音もなく近寄って手鏡を差し出す。
　音楽家は無駄な音を立てない、ってのが本人の弁だけど、
　アーティストよりアサシンの方が向いてるんじゃないの、こいつ。

　そういう問題じゃない、と言いたかったけど、
　しっしっと右手でルチルを追い払うジェスチ

　うっせぇよ！！

　シトリンについては、もう何か言うのも億劫。
　どうせ騒がしいのはぜったいに変わらないだろうし。

　あたしはただしい意味で自由になった。
　アレは交渉における技術のひとつだったけど、
　今となっては宝の持ち腐れだ。

　元気よくクリスの元へと駆け寄っていく2人の後ろで
　あたしは欠伸を噛み殺すふりをしながらゆったりと飛来する。
　……本当に欠伸が出たのかもしれないけど、演技ってことにしておいて。

　クリスはどこかしら陽気だった。
　きっと、次の進攻でアルヴィナたちと合流するからだろう。

　今のクリスを見た連中は、はたして陽気でいられるのだろうか。
　無邪気さは罪だね、まったく。

　いつものありきたりな会話。
　

　死ぬ、という単語は使わない。あたしはすでに死んでいるから。
　気軽な口調にも嘘はない。今のあたしには未練がないから。

　回答の代わりのつもりなんだろうか。答えろよ。
　ジジイはあたしに紅い何かが入った大きなカプセルを投げ渡し、あたしは慎重にキャッチした。
　あいつがずさんに扱うものほど、あいつにとっては大切なものなんだ。
　あたしは曲がりなりにもジジイのことはよく知っていたし、そんな自分が嫌だった。

　出発直前に何言ってんだ、寝耳に熱湯叩き込んでんじゃねーよ。

　結局、このあとにたいして話すこともなく、あたしは淡々と転移装置に乗り込む。
　クリスが仰々しい船でメルンテーゼに送られた直後に出発だ。



　光に包まれる刹那、
　あたしがこの故郷を眺めるのは、
　ひょっとしたらこれが最後になるのかもしれないと感じた。










　あたしとクリスは、森の中でのメルンテーゼであらためて出会う。
　あたしは死んで以来ずっとクリスを遠くから観てきたけど、
　クリスにとって、あたしは初対面の相手。

　……クリスは、ただのシステムじゃなくなっていた。
　メルンテーゼの元素と交じり合ったクリスは、
　生命体と呼ぶにふさわしい輝きをまとっている。

　あたしは化物に追い詰められていたクリスを抱きかかえ、飛んだ。
　ネクターを介して、この世界の情報がクリスによって伝達される。

　そして、すべてをあたしは悟った。



　ジジイは、たんにクリスを逃がすためにこの遠い分割世界を選んだんじゃなかった。



　エンブリオ。
　ネクターという楔で契約者と結びつけられる生命体。
　共存関係とも主従関係ともつかない、メルンテーゼの理。
　死者の魂を世界と連結させるマインドヘッドのシステムと、
　ジジイは何らかの共通項を見出したに違いない。

　あいつは、クリスをべつの存在に造り替えたかったんだ。
　マインドヘッドの因果から解放するために、
　“輪廻”の脅威であると見なされないようにするために。

　死んだ身体のあたしは、生きた意志のクリスにネクターを差し出す。
　こうして、あたしはエンブリオのクリスタル・カレランと契約した。
　誰に対しての義理でもない。もちろんクリスのためでもない。
　あたしの、あたしのための、ゆがんだ恣意にもとづいた目的のために。



　さんざん下らない人生を送ってきたんだ。
　第二の生命、いや死命くらいは、
　自分勝手に全うしても、誰も文句なんか言わないだろうからさ。

戦闘の後、苦しそうな様子をするクリスを心配したのかモクラが近づいてきた。

軽く手を握り、クリスを見つめるモク。
モクラの目は真っ直ぐ、クリスを見つめていた……