“死せる者たちの王”を文字通り“喰らった”アイヴォリーは、丸一日かけてようやく普段通りの彼に戻ったようだった。無論表面上は昨日も平然とした様子を繕ってはいたのだが、この男にしては珍しくその演技は非常に拙いもので、近寄りがたい闇の気配に彼を遠巻きにしていた二人からでもその異変が手に取るように分かってしまうという、その程度のものでしかなかったのだ。下唇を噛み締め、脂汗を浮かべながらどうにかその日を乗り切ったものの、次の日の夕食前になってようやく声をかけてきたシェリーに対して口を開いて出た言葉は、明らかに意思疎通の用を果たさないものでしかなかった。二晩形のない悪夢にうなされ、幾度も飛び起きながら浅い微睡みに戻る。そうした戦いの後、どうにかいつもの鉄面皮を引っ張り出すことが出来るようになったアイヴォリーは、表面上だけにしろ傍から見ても違和感のない程度には“元通り”になったのだった。
　ただ、“元通り”といってもそれは薄皮一枚といった程度の表面的なものでしかない。何よりも彼の纏った気配そのものが変質してしまっていた。永く彼を知る者であれば、今のアイヴォリーにどこか懐かしさを覚えたかも知れない。それはかつてのアイヴォリーの中ではもっとも暗殺者時代のそれに近いものであり、要するに死の気配とでもいうべき、命の、つまり全てのものの生きることに対する軽率さといったものだった。“生きる”ために喰らった死の影により訪れた、生命への尊敬の欠如ということも出来るような、そんな気配を今の彼は纏っていた。
　また同時に、魔術の素質のある者であればもっと明確に彼の変質を感じ取ることが出来た。それまで彼を包み共にあった緩やかな風、風の乙女は既にそこになく、代わりに深淵を覗き込むような闇の精霊が彼の身近に感じ取れるのである。もっとも近い例では、死の予告をもたらすという泣き女の啜り泣きか首無し騎士の駆る馬の足音がそれだろう。つまりそれは死の予感、もしくは死そのものの到来ということだ。

「コイツは、ちッとばかしキビしいねェ。」

　眉の間に皺を寄せてアイヴォリーが一人呟く。だが、その口元はなぜか笑みに形づくられたままだ。どこか剣呑な、自身の状況を愉しんですらいるかのようなそんな様子だった。以前、宝石に秘められた精霊を吸収したときには、完全にその存在を掌握し自らの糧とすることが出来た。だが今回はまだ、彼の中に巣食った存在が覇権を取り戻そうと足掻いているのが彼には分かる。どうかすると“それ”が出てきてしまいそうな感触すらあった。実際アイヴォリーにしてみたところで、これが自らのことでなく誰か別の知り合いに起きていることならば、すぐさま“吐き戻す”ように忠告したことだろう。無論、そんなことが可能ならばという話だが。だが、この“死せる者たちの王”の力により妖精の女王の呪いからは解放された。というよりも打ち消し合っているだけのことなのだろうが、少なくとも今の彼にはあの身を焦がすような焦燥感はない。
　アイヴォリーが剣呑な笑みのまま無造作に左手を開き、そこに闇が蟠る。それはごく初歩的で簡単な、魔術のひとつだ。闇の精霊を召喚しそれを相手に叩き付けることで相手の精神力を削る。だがアイヴォリーは、それをどこかにやることなく、そのまま手で握り潰した。それはまるで、自らの中に宿った存在をそうして握り潰してしまおうとでもしているかのような仕草だった。