一揆は終わりを遂げた。
誰もがはじめ、信じていた方向とはまったく違った方向へと、世界は動き始める。
世界は平和になりました、めでたしめでたしのハッピーエンド。
—となるかは、今の段階では誰にも分からない。

それでも誰もがその希望の光をその身に感じながら、日常を取り戻した喜びの声は絶えることがなかった。
そもそも一揆衆は誰もが、歪められた日常を正すために剣を握った者たちだ。
ただただ続く、日常を生き続けてきた者たちだ。
幸せを維持する努力を忘れるな、ということならば、ただそれを受け入れるだろう。
何の変哲もないただの人間ほど、そういった堅実な生き方は得意なものなのだから。

アジュガたちもまた、それぞれの日常へと戻る準備を始めていた。
手にした武器をただの道具へ戻し、自身をただの花守へと戻せるときが来たのだ。
妖精と人々を結ぶために育てられていたネクターは、これからはまた別の意味を持つ花になるのかもしれない。
もしかすると意味など存在しない、ただの紅い華へなることだってあるかもしれない。
それでもまた、見慣れたあの焼け付く真っ赤な色の絨毯を、丘の妖精たちも望んでいるはずだ。
一度枯野となってしまった丘は、今はどんな色に染まっているだろうか。
預けた花の種は、もうどれもすっかり育ちきっている頃だろう。
アジュガの中にあるあの丘の姿は、いつだってネクターが咲き誇る、赤一色のまぶしい姿だ。
雑多な草花が混じりあい、手を取り合って生み出される景色がこれからの丘の姿になるのならば、深緋が丘という名前そのものも、いずれは人々の記憶からは失われてしまうのかもしれない。
それでもいいのだろう、と花守は考える。
リコリス、サフラン、ダイヤモンドリリー。
育てたことのない多くの花々は、どのように丘を彩るのだろうかと、アジュガの気持ちを明るくさせた。

一方で、内乱を終えた開放感に浸れないままなのが、ヴィツだった。
彼は彼の抱えている大仕事を、まだ終えてはいないままだった。
いつかのあの日、ベルエトワールに告げた行為を、彼はまだ果たせていなかった。
彼がアジュガを悲願のために利用し、いずれはアジュガそのものを食い殺す事実を、いつ、どのように伝えればいいのか、どうしても決断ができないままでいたのだ。
自分は彼女と契約したエンブリオで、一揆を成功させるために契約したエンブリオなのだ。
ならば、一揆のために精神を集中している彼女の心を乱すような情報を与えるべきではないのだと、ずっとあの日のことを抱えて、黙りながら生きてきた。

けれど、一揆が終わった今、その気遣いは不親切にしかならない。
安全に芽吹くことができる時勢となった今、ベルエトワールも羽化への遠慮はしないだろう。
沈黙はその分だけ、アジュガの命を削ることに他ならない。

自分の小さな手のひらを見つめる。
言語情報のかみ合わない自分たちを繋ぐのは、この手なのだと気づかせてくれたのは、カリンカランだった。
アジュガの死を食い止める方法の模索を行わなかった自分を、彼女は責めるだろうか。
それとも今は、アジュガの知る権利を害する自分を責めるだろうか。

しかし、それを告げることができるのは、今自分しかいない。
たかが眠りの妖精が、ずいぶんな役回りを押し付けられたものだと思う。
それでも、子供たちを眠りの世界に案内する立場として生まれてきたのだ。
ここにいる大きな子供にも、良い眠りの世界へと、導いてやらねばならないだろう。

いつものように、小さな体でアジュガの足元へ駆け寄る。
どこか気の抜けた彼女ではあるが、幼い頃から妖精から過ごしていたせいか、小さな生き物の動きには目ざとい。
すぐにヴィツの姿を認めると、ゆっくりと腰を下ろして彼と目線を合わせた。

そう言いながら、彼女は右手を差し出す。
こちらに会話を促す、自分たちだけには浸透しきった合図。
その手をヴィツはじっと見つめると、触れることはせずに、一度咳払いをした。

ただ普通に喋るだけなのに、一言目が出ない。
喉が焼けるようだ。

なんとか搾り出した声で告げて、頭上の彼女の表情を仰ぐ。
アジュガはというと、春のような瞳をきらきらとさせて、にっこりと笑うばかりだった。
淑女のようでいて、中身はただの子供らしい、いつも通りの彼女の笑顔がそこにあった。

そんなことを、疑いもないような瞳で言うのだ。
いつも通り過ぎるのも、少々問題があるのではないか？
砂の妖精は呆れつつも、残り僅かないつも通りのその時間を、心の中では愛しんだ。


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いつかの川原へ戻り、丸い石を踏み越えて進む。
腰を下ろすのに良さそうな流木を見つけ、そこへお互い腰をかけた。
一揆をしていたあの日から変わらず、ここの流れは美しい。
人間同士の争いなど、自然にはなんの関係もないような表情を浮かべて、流れはただただ続いている。

遠景には、得意げに釣竿を振るうクェンティンと、その傍で魚を調理するセレステの姿が見える。
彼女のエンブリオである以上、いずれあの双子やサンインにも話さなければならないことだ。
別に聞かれたからといって、困る内容でもないだろう。
ヴィツが覚悟を決めてアジュガの方へ向き直ると、瞬間、強いバイカウツギの芳香が通り抜けた。
—ベルエトワールも今、ここにいる。

いちいち主張せずとも、彼にもまた筒抜けであることは分かっている。
くどいやつだと、ヴィツは小さく舌打ちした。

あ、と、アジュガが声を漏らす。
安心した。
さすがに注意力の薄い主人とは理解していたが、そこにまで自覚がないようなら、話が進まない。
目の前のアジュガは、指を折りながら思い当たる日を数えているようだったが、こちらの話がこれから本題に入るのだという風を感じ、改めてヴィツへと向き直った。
その瞳の色は、こちらを信じている気配の方が強く見える。
ベルエトワールがカリンカランを殺害した日、当然ながらその身体はアジュガのものであったはずだし、その日も彼女は意識がなかったはずだ。
彼女なりに、ずっと疑問に感じていたのだろう。

それからヴィツは、いつかの彼とやり取りしたことを、ただ淡々と話した。
デメリットもメリットも、ただ伝えられた情報を、そのまま伝えるだけのように。
—アジュガが人間ではないということ。
—ベルエトワールが完全な妖精ではないということ。
—そして、アジュガは彼を妖精王として産みなおす力がある代わりに、命を失うことになること。
—アジュガを利用するために、意図的に事故を起こして命を助けたこと。
—ただし、彼は王としての責務は正しく全うするつもりでいること。

カリンカランは優しすぎた。
意見を衝突させるつもりで話して、結局アジュガは耳を塞いでしまった。
ベルエトワールを今からでも滅ぼしたいか？と聞かれれば、それはもちろんイエスだろう。
自分だって行きずりの契約をしただけの身とは言え、いまやアジュガとは一番付き合いが長い身となった。

自分もまた彼女をよく知る身となった。
だから、彼女のことはよくわかっていた。
アジュガはおそらく、全てを知ってもベルエトワールを拒まない。

それでもと、ヴィツはアジュガに訴えかけた。

これで全部だ。
これ以上の訴えは、意味を持たない。

自分がもう少し饒舌な性格なら、アジュガの意識も変えられただろうか。
ヴィツは苦い思いで、目の前の少女を見つめ続けたが、変えたところでベルエトワールに勝てるかは、わからないままだ。
カリンカランがいなくなってから、彼女に会いたいと思うことが何度もあった。
それでも自分なりに、この花守の子守を引き継いできたつもりだったが、やはりそううまくはいかない。

少し困ったような笑顔を見せると、アジュガはやはり、首を振った。
この瞬間、自分たちの一揆の終章も決まったのだ。
妖精の従者は、最後まで妖精の従者で居続けることを決めた。

それに、とアジュガは付け加えるように続ける。
いたずらっぽい瞳には、妖精の従者としてではなく、彼女本人の意思が宿っていた。

それだけ言い切ると、アジュガはすっきりとした表情を浮かべた。
ヴィツは少々面食らったが、すぐに微笑み返した。
なんだ、意思のない従者のままだろうと思っていただなんて、自分はわかった気になったつもりで、ちっともアジュガを理解していなかったじゃないか。

まだまだ子守は続きそうだ、と、青空の向こうのカリンカランへと語りかける。
それでも何故か、この絶望的状況において、胸に湧き上る春の光のような希望を、ヴィツは心地よく感じていた。