彼らは弱くて、ちっぽけな存在だった。
　鋭い牙も、強靭な爪も、闇夜を見通す目も持たない。
　少しばかり器用な指先を与えられただけで、なんと脆弱な存在であることか。
　そんな彼らが自然を畏れ、敬うのは当然のことだった。

　ある時、彼らは不思議な生き物と出会う。
　自由に姿を変えられたり、言葉を話せたり。
　強い力を持ちながら、時に呆気なく消えてしまう。
　だけれど、契約を交わせば力を与えてくれた。

　——きっとこの生き物は、神様に違いない。
　どこから来て、どこへ行くかも分からないけれど。
　神様の国があって、地上に在る姿は仮初なのだろう。

　それは古くて遠い、おとぎ話。
　分からないモノを、分からないまま受け入れた伝え話。

　エンブリオ。
　彼らが妊った胚は、果たして何だったのか。
　生まれてしまったモノは、果たして————。

　——————————————————————

「……信じられませんわね」

　マーティナ・オーデュボンは、聞かされた話にそんな感想を述べる。
　彼女はさる貴族に仕える高名な騎士であり、ラッセル・ヨークの荒事方面での相談役だ。
　彼女が聞かされたのは、暫定議会を発足させた少女、アムルイの身に起きたことだ。

　エンブリオ——フェアリーと合一を果たし、“望む姿”として、自らの腕という形で召喚する。
　最初に聞かされた時は、この冗談にどう答えたものかと思ったものだ。
　確かにエンブリオは決まった形を持たない。
　種族ごとに何となく同じ姿を取っているようではあるが、人と契約を結べば話は別だ。
　契約の支配下に置かれたエンブリオは、契約者がそう望んだ姿を取ることが多い。
　エンブリオの肉体はおそらく、物質的な側面を持った霊体だろう、というのが一般的な見解だ。

　だが望んだ姿とは言えども、それはあくまで個体としてだ。
　契約者の肉体そのものに成った例など、一度として耳にした覚えがない。
　そもそもマーティナの知る限りにおいて、エンブリオとは精神や魂といった、存在の本質そのものだ。
　精神や魂だけで活動できる生物——物質的な肉体から解き放たれた、高次の何か。
　その仮定で言えば、だからこそエンブリオとの合一はありえないことなのだ。

　つまりそれは、魂が混ざり合うということ。
　契約者とエンブリオという、契約によって繋がれた関係ではなく。
　人でもあり、エンブリオでもあり、そのどちらでもない——まったく別の何かになるということだ。

「その……何か、体に変わったところはありませんの？」

「特にないかな。むしろ調子がよくなったぐらいだよ」

　問いかけに、アムルイはそう言って微笑んだ。
　嘘でなければ、可能性としては三つ。
　本当に何もないか、自覚がないだけか——自覚もできないほどに変わってしまったか。

「そう。問題がなければ良いのですが……。
　腕としては以前と同じような感覚ですの？」

「んー、どうだろう。感触とか、そういうのは同じだと思うけど。
　後になって気付いたんだけど、こんなこともできるんだよね」

　そう言って、アムルイは左腕を伸ばし——その腕が消える。
　動かして見えなくなっただとか、そんな話ではない。
　文字通り、左腕が消失してしまったのだ。

「で、こんな感じ」

　消えたのが嘘だったかのように、元に戻る左腕。
　あまりのことに目眩がして、マーティナは眉間を指で押さえた。
　彼女はアムルイ自身も気付いていないことに、気付いてしまっていた。

（原理としてはエンブリオの召喚と同じですわね。
　問題はこれ——左腕限定の現象ではありませんわ）

　あくまでもこの左腕は、アムルイが“望む姿”としての左腕だ。
　しかしエンブリオとの合一は、腕だけに限らない。
　そも、腕などという物質的なものに限定される方がおかしいのだ。

　合一を果たしたのは肉体ではなく魂。
　与えられた機能は左腕の具現化ではなく、肉体の具現化。
　そうと知って望めば、おそらくアムルイは全身を“望む姿”に変えられるだろう。
　だが————

（本当に“それ”を……そんなモノを、人間と呼べますの？）

　故にマーティナは、この事実を伝えない。
　伝えればきっと、アムルイのこれからの戦いで大きな力になるだろう。
　しかしそれは、アムルイを怪物に変えてしまう行いだ。
　この少女はまだ、自分が怪物になってしまったことに気付いていないのだ。

　“望む姿”を取るのであれば。
　自分を人間だと思っている間は、まだ彼女は怪物でも人間なのかもしれない。
　人間に繋ぎ止めることが、できるのかもしれない。

「……ともあれ、前例のないことですし。もう少し調べた方がいいですわね」

「うん、そこはお願いするよ。私はそっち方面、弱いからさ」

　苦笑するアムルイを見て、彼女でよかったかもしれない、とマーティナは思う。
　下手に知識のある者ならば、自分が気付いたことにもすぐに気付くだろう。
　だがエンブリオについては詳しくないアムルイならば、教えなければ気付かないだろう。
　この力を得たのが——エンブリオとの合一を果たしたのが、本当に彼女でよかった。
　知らないからこそ、まだ彼女を人間として扱うことができる。

「ところで、これから先はどうするつもりですの？」

　調べるなら調べるで、アムルイの予定は聞いておいた方がいい。
　そう思って問いかけると、彼女はこう答えた。

「しばらくは一揆の方に専念かな。
　色々と気になることはあるけど——今はそっちしか動けないから」

「そう……でしたら、たまには報告に戻ってくださいましね」

「はいはい、分かってるよ」

　言いながらアムルイは腰を上げる。
　今日、ここでの用件はもうないのだろう。
　マーティナも特に引き止めず、そのままアムルイを見送ることにした。

　——本当にアムルイのことを思うならば、引き止めるべきだった。
　前例のないことだからこそ、慎重に体を調べるべきだった。
　だが、マーティナにはそれができない。

　誰だって怪物よりも、我が身の方が可愛いのだから。

暗がりからの声を聞かない、というのは賢い選択ではある。
だが闇の道に自ら飛び込もうとあらば、まねく声は否応なしに降りかかる。
聞かぬ存ぜぬ、その内何も聞こえなくなる。自分の声だけ聞いていればいい。
どの道破滅。まったくもって愉快な世界だ。

折角自分が言ってやった事を、全く理解出来てないというのは残念に思う。
だが理解出来ないモノは仕方ない。
それなら自然に学んでいけばいいし、”方向転換”するのもアリだろう。

俺の言う事を理解したようであれば、嗤いの種にして思いっきり嘲ってやろう。
その時目の前の少女はどんな顔をしているのか……実に楽しみだ。

男は闇の中に溶け込み、その気配は消えていた。

マリアの体を黒い霧が包むと、下半身が蛇の女性が姿を現した