人は過ちを犯す生き物であるという。
　失敗して、間違えて、そこから学習していく。
　いつか正解に辿り着ける生き物だと、訳知り顔で賢者は語る。

　ならば間違い続ける生き物は、きっと人間ではないのだろう。
　それが過ちであると自覚してなお止まれぬ者は、もう違うモノなのだ。

　それは英雄か狂人か。
　問題とするのは向かう方角だけ。
　生きる速度は、どちらも等価に違いない。
　
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　深夜、アムルイは左腕の痛みに耐えかねて目を覚ました。
　呼吸は細く荒く、全身には不快な汗が浮かんでいる。
　血管を流れる血潮は泥のように感じられ、まるで生きた実感がしない。

「っ————」

　左腕を失ってから時折、アムルイはこの痛みに襲われていた。
　失くした腕が痛む幻肢痛。
　脳が腕を失ったことに慣れていないのか。
　それとも、あるべきものがないことで、異常を痛みとして訴えているのか。
　いずれにせよ、この痛みは何をしても治まらない。
　しばらくすれば落ち着くが、それまでは万力で締め付けるような疼痛が続くのだ。

（さすがにこれは、どうにかしないと……）

　痛みそのものは我慢できないものではない。
　問題は幻肢痛がいつ現れるものか、分からないという点だ。
　我慢はできるが、無視できる痛みではない。
　もし戦いの最中にでも幻肢痛が生じれば、命取りになってしまうだろう。

（義手を作ってもらう——のは、あんまり現実的じゃないか。
　失くした腕が痛いのに、作り物を繋いだところで誤魔化せるとは思えない）

　心当たりはないが、異世界人の知恵や技術を借りれば、あるいは意のままに動く義手も手に入るだろう。
　それは隻腕の不便さの解消にはなるが、幻肢痛の解決にはなるまい。
　義手を用意したとしても、結局はその義手が——失った本来の腕が痛むに違いない。

（となれば、魔法で再生か復元するのが一番だけど……。
　そこまで高位の治癒魔法を使える人はいたかな）

　ひょっとしたらアイサならば使えるかもしれないが、あえて除外する。
　彼女にこの腕のことで泣きつくのは、さすがに許容できるものではない。
　背を合わせて戦うことはできるが、それが妥協できる限度だ。
　そこまで考えて、ふと、閃くものがあった。

（私は魔法は苦手だけど、使えないことはない。
　それにエンブリオの力を合わせることができたら、ひょっとして——）

　閃きを試すべく、アムルイは契約しているフェアリーを呼び出す。
　戦闘時に召喚できるほど強い存在ではないが、それなりに長く契約を結んでいる相手だ。

「どうしたのマスター？　腕のことなら、気休めしかできないけど」

　幻肢痛で目を覚ましたことは、フェアリーにも伝わっていたのだろう。
　契約を結んでいるエンブリオの中で、真っ当な治癒魔法が使えるのはフェアリーだけだ。
　しかしアムルイは首を横に振って、

「ちょっと試してみたいことがあるんだ。
　今までの戦いで、エンブリオには色んな形があることが分かった。
　だからひょっとしたら、私にもできるんじゃないかって」

「何をする気なの……？」

　問いかけに、アムルイは考えを伝える。

「エンブリオで腕を作る。
　望む形に変化させて召喚することが可能なら、そういうこともできるかなって」

「————それは」

「できる、と思うんだ。
　だってエンブリオの姿は、“そう望んだもの”になるでしょ？」

　例えば騎士の亡霊、ナイトスピリット。
　彼は元人間だが、人の姿ではない。
　騎士として戦うために、その魂を鎧で包んだ姿で顕現する。
　おそらくは無自覚にそうしているのだろうが、望まなければその姿にはなるまい。

「それなら“自分の腕”という姿を望めば、きっとそうなれる。
　ちゃんと血の通う、本物の痛みを感じられる腕に」

「だけどマスター！　自分が何を言ってるか分かってるの！？」

　フェアリーは悲壮に満ちた声を上げる。
　それは主人を大切に思うからこそだ。

「それはただ契約を結んで力を得るのとは違う。
　エンブリオを取り込んで、違う生き物になるということ。
　その結果がどうなるかなんて、私にも分からないんだよ……？」

「だけど今は、他に手段を探している余裕もない」

　戦いは何一つ終わっていない。
　一揆のことも、暫定議会のことも、——兄のことも。
　これからも戦い続けるための力が、今すぐに必要なのだ。

「だからフェアリー。卑怯かもしれないけど、君との契約を一度破棄する」

「えっ？」

「自由になって、私に付き合い切れないと思ったら、そのままどこかに行けばいい。
　でも、もしも私を見捨てられないと思ったら——対等な関係で、私の腕になって欲しい」

　契約で従えるのではなく、一緒に戦う友として。
　エンブリオをただの道具としないために、アムルイはそう言った。

「だから命令じゃなくて、お願いするよ。
　フェアリー。私を、助けて欲しいんだ」

「……マスターは——アムルイは、ホントに馬鹿だよね」

　諦めたようにフェアリーは笑う。
　それは親が子に向けるような、温かいもので。

「そんなこと言われたら、断れないじゃない」

「ありがとう——フェアリー」

　そしてアムルイは、腕のない左肩をフェアリーに向ける。
　フェアリーは歪に肉の隆起するそこに触れて、

「私はアムルイの腕になる。
　今までの力はもう与えられないけど、新しい力になってあげる」

　微笑みながら、その姿は光の粒子となって消えた。
　漂う粒子はアムルイの左肩へ集まり、腕の形となって————

「——ぁ、ぅ————ッ！！」

　突如として体内を駆け巡る魔力に、全身の血が沸騰する。
　停止する心臓。
　中枢も末端も分け隔てなく死滅する神経。
　何が痛いのかも分からない激痛に襲われる脳髄。
　魂を千夜に渡って陵辱されるほどの異物感。

　これまでに培ってきた全てが喪われる。
　手にかけた奇跡はお前を壊すと、本能が叫んでいる。
　死と喪失を恐れる命が、お前を守るためにこの奇跡を手放せと訴える。

　それがどうした、と手を伸ばす。
　元より死を恐れぬ道を選んだ我が身。
　己が身可愛さに手放せるものなど、塵一つとしてない。

　——逆流する記憶。
　自分のものではない、誰かの思い出。
　私の新しい力になると告げた瞬間から過去へ、過去へ。
　人の手が触れる前の、遠い日々。

　辿り着くのは命の故郷。
　生まれる前の、あるいは死んだ後の遥かなる地平。

　酷く懐かしくて、知らずの内に涙が頬を伝う。
　ああ。此処から私もやって来たのだ。

　酷く悲しくて、知らずの内に涙が頬を伝う。
　ああ。此処はもう、私を受け入れない。

　唐突に意識が弾かれ、自我は荒野を彷徨う。
　故郷に帰る資格を失った、愚か者どもが末路の地。
　かつてこの道を駆け抜けた先達が、止めろ、と正す声がする。
　末路の果てに蠢く未来の影が、帰れ、と叫ぶ声がする。

　それでもアムルイは、此処に来ることを望んだ。
　後悔が先にあるからと、足を止めるわけにはいかない。
　必要なのは今この瞬間、歩き出すための力。

　自らの意志で道を外れる。
　命の営みより外れ、天の理より外れ、星の巡りに背を向ける。
　運命を踏み越え、己を何物にも委ねはしないと、自らを掴み取る。

「————ぁ」

　覚醒する意識。
　永遠に続いた刹那の激痛が消えた時、アムルイは硬く手を握っていた。
　星から生まれた命と合一を果たし、新たな左腕がそこにある。

「……動く、よね……」

　感触を確かめるように左腕を動かす。
　かつての腕と変わりなく、望んだ形として腕は動いた。

　そうしている間にも、激痛の中で視た記憶が薄れていく。
　あれは生きているモノが視ていいものではない。
　ましてやその資格をも失ったアムルイが、憶えていられるものではない。

「——でも、これで私は歩ける」

　あまりにも多くのものを失った実感がある。
　何を失ったのか明確でなくとも、大きな喪失感がある。
　だがアムルイはそれらと引き換えに、生まれ変わったのだ。

「私はようやく、そういうモノになれた」

　——その誕生を祝福するものはいない。
　星の元に巡らぬ命を、誰が祝福するものか。
　故に————

　この時を以って、アムルイ・パセニシパは怪物と成り果てた。