歩くことのできる者がいた。
　それはできて当たり前のことで、何一つ難しくない。
　だから歩くことのできない者に、その人は歩けと言った。
　誰だって歩けるのだから頑張れと。
　その残酷さを知らないまま、言葉を胸に突き立てたのだ。

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　その夜、ラッセル・ヨークは王都のサロンにいた。
　複数の個室があり、高級店にも負けない食事や酒を提供してくれるサロンだ。
　元々は貴族や大商人が利用するもので、後ろ暗い話をする場としても利用されてきた。
　ラッセル自身、このサロンを利用したことは一度や二度ではない。
　親しい相手であれば邸宅に招けばいいが、そうでない相手はそうもいかない。
　まず信頼関係を築くためにも、こういう場での会話を積み重ねるのが常道だ。

　ラッセルは今夜も個室を利用しており、卓には華美な料理が並んでいる。
　向かいの席に座るのは、栗色の髪を持つ妙齢の女だ。
　料理には手を付けず、舐める程度にワインを飲んでいる。
　警戒されているのだろうな、とラッセルは思う。
　初対面ではないが、食事をするほど親しい仲というわけでもない。
　ましてやサロンに招いたのだ——何かあると、勘繰られているのは当然だろう。
　故にラッセルは、まずは挨拶程度に問いかける。

「——ここの料理はお気に召さなかったかね？」

「あら、そんなことは。ワインが美味しかったものですから」

　こちらの気分を害さないようにか、たおやかに微笑む。
　害するかどうかは、これからの話次第だ、という意思表示だろう。
　あまり迂遠なことをするよりは、単刀直入な話を好むのかもしれない。
　そう察して、ラッセルは本題を切り出すことにした。

「ワインを気に入ってくれたのなら何よりだ。
　さて、オーデュボン卿。そのままでいいから聞いて欲しい」

　女——マーティナ・オーデュボンは、グラスを傾けたままラッセルに目を向ける。
　一揆衆にこそ加わってはいないが、彼女は王国でも名の知れた騎士だ。
　王都には主君たる貴族の命で、一揆や王の動向を探るべく滞在していた。
　彼女の主君はラッセルとも浅からぬ付き合いがあり、場合によってはラッセルに加担すると約束した。
　この会食は彼女を代理人とした、暫定議会と貴族の対話の場でもあるのだ。

「フロックハート商会、あるいは異世界の者も動いているように、この流れは最早止まるまい。
　誰の目指した形になるかはともかく、この国は一度、滅びることになるだろう」

「そうでしょうね。我が主君もそのように仰っておられましたわ。
　ですがヨーク様、一番近いところにいるのは貴方——暫定議会の面々ではないかしら？」

「ふむ……距離を置いていれば、あるいはそう見えるのだろうね。
　しかし我々はその実、烏合の衆に過ぎんのだよ」

「————は？」

　マーティナは目を丸くするが、ラッセルの言葉に偽りはない。
　ラッセルというまとめ役がおり、資金や組織力にも問題はない。
　また目指す理想も危険なものではなく、大多数が利益を得ることを目指す健全なものだ。
　確かに外から見れば、盤石に見えるのだろう。
　だが、内から見れば話は変わってしまう。

「我々は対等な協力者であり、競争相手でもあるのだよ。
　暫定議会そのものは、利益を約束するものではない。
　今後の競争に出遅れないために、手を取り合ったフリをする場所——それが暫定議会だ」

「……良いのですか？　それは暫定議会を集めたという、少女の理想に反する気もしますが」

「反したところで問題あるまい。
　一度、組織としてそれが成立してしまえば、彼女の意思はむしろ邪魔とさえ言える」

　その点に関しては、アムルイは上手くやっている方だろう、とラッセルは評価していた。
　こういうものは最初に動いた者が代表者になりたがるが、アムルイはそれを望まなかった。
　どんな形であれ、自分が目指したものを実現する手段として、暫定議会を作るだけ。
　余計な主張をすれば排除されてしまうことを、よく理解しているようだった。
　あるいは流れさえ作ってしまえば、それでどうにかなると理解していたのか————。

「まあ、少々理想に反した程度では、彼女は何も言わんよ。
　それを許容する程度には寛容で、現実主義のようだからね」

「承知の上、ということね……」

「そうとも。商人を主体とする暫定議会にとっては、まさしく理想的だ。
　我々はそれ故に烏合の衆ではあるが、それ故にしぶとくもあると言えるだろう」

　言ってしまえば、目的をある程度共有した市場競争だ。
　差がつくことはあっても、上手くいけば誰かが損をするということはない。

「——だが懸念もある。こればかりは金で解決できるものではないだろう」

「それが私を招いた用件かしら？」

「うむ。オーデュボン卿よ、貴女は優れた騎士だ。
　王直属の騎士にも遅れを取ることはあるまい。
　その強さと、経験を見込んで尋ねたいことがあるのだよ」

「私に答えられることであれば」

「では率直に問おう。——我々は勝てるのかね？」

　その問いは暫定議会のみならず、一揆衆全てを含めた問いだった。
　魔王パラダイスを倒すことができるのかと、ラッセルは問いかけていた。

「私はエンブリオへの理解も浅く、戦いに関してはまったくの門外漢だ。
　しかし伝え聞く噂程度でも、国王側には尋常ならざるものを感じるのだよ。
　そう——我々はそも、魔王パラダイスの目的すら知らぬのだ」

　このような問いかけをするのには、もちろん理由がある。
　ラッセルは今まで、王の目的が何であれ倒せるだろうと考えていた。
　民に見放された王に、勝機などあるわけがないと楽観していたのだ。
　だが嘘か真か、ラッセルはひとつの噂を知った。

「卿も聞いてはいるのではないかね？
　国王側には、エンブリオを複製する技術があり、実際にそれを運用している、と」

「……ええ、存じておりますわ」

「ならば重ねて問おう。——エンブリオとは、何かね？
　その本質を知らねば、我々は勝てぬ気がするのだよ」

　問いかけに、マーティナは押し黙った。
　やはり分からないのだろうか、とラッセルが失望しかけた時だ。
　マーティナは重苦しい声で言った。

「私の推測になってしまいますが————。
　エンブリオとは、精神や魂……存在の本質だと考えておりますわ」

「……ふむ？　つまり肉体は器に過ぎない、ということかね」

「ええ。そしてもし、本当にエンブリオの複製が可能であるならば」

　言いかけて、マーティナは口を噤んだ。
　それを口に出してしまうのが恐ろしかったのかもしれない。
　自分達は勝ち目のない戦いを挑んだのだと、思いたくなかったのだろう。
　だからその先は、ラッセルが引き継いだ。

「——魔王パラダイス。彼も複製してしまえば、殺しても死なない、ということか」

答えを得た。
けれどそれは、きっと始まりでしかなくて。

答えをくれぬものに、挑むために。
答えなんてないものに、抗うために。