真実だけが価値を持つとは限らない。

　時に真実は胸に痛いもの。
　時に虚偽は耳に甘いもの。
　人がどちらを好むのか、それは個人の問題だ。
　けれど、俺がどちらを好むかと言えば。
　嘘偽りなく、俺は虚偽を大切なものと答えるだろう。

　いつも剥き出しの自分でいるなんてぞっとする。
　適度に壁でも作ってやらないと丸裸。
　真実だらけの世界があれば、露出狂どもが殺し合うだけだ。
　だから、そう。
　嘘つきだらけの方が、世界も上手く回るんじゃないかな。

　——狼少年に同情する。
　君一人だけが嘘吐きだった、世界の残酷さを呪って。



閑話／とある嘘つきの話



　アシリアイノ・パセニシパという青年は、自分を幸運だと思っていた。
　山野に生きる部族の中、酒造りの家に生まれた彼は、その後継者として育てられる。
　危険な狩りをする必要もなければ、戦士としての鍛錬も課せられない。
　無論、酒造りについては一から十まで教え込まれたが——少なくとも、命の危機はない。
　生きることに不安がないというのは、彼の部族にとって望外の幸福だ。
　特別ではない、代わりのいる者は毎日が命懸け。
　その営みを特別だと思わないだけで、いつ死んでもおかしくない狩猟暮らし。
　物心ついた時には、彼は自分が恵まれているのだと自覚していた。

　もっとも、その程度のことで思い上がるほど、器の小さな男でもなかった。
　自分には、だからこそ果たすべき役割があるのだと、自制を失わなかった。
　それは酒造りの後継者として、理想的な子供だったと言えよう。
　狩りに連れて行けとせがむことも、勇敢な戦士になりたいと願うこともない。
　自らの役割を全うせんと、幼いなりにひたむきでもあった。

　彼に変化が訪れたのは、妹が生まれた頃だ。
　父や母は当然のこと、祖父母や部族の仲間も妹の誕生を喜び、盛大に祝っていた。
　しかし何となく、彼は察していたのだ。
　自分が生まれ持った幸運は、この妹には——否、妹だからこそ、与えられないだろうと。

　妹はアムルイと名付けられた。
　およそ女らしくない、「鋭い爪」という意味の名だ。
　それは戦士になることを宿命付けられた名。
　酒造りの後継者はアシリアイノがいるのだから、アムルイにその座はない。
　彼が当たり前のものとして享受してきた恵まれた世界は、妹には最初から辛辣だった。

　彼が酒造りを学ぶのを尻目に、妹は言葉も覚束ない頃から戦士として仕込まれた。
　それは彼の妹が特別だったからではない。
　部族の中で特に役割のない者は、男女を問わずにそう育てられる。
　途中で死んでも、それはそれ——戦士に相応しくないカムイの持ち主だったと、嘆くだけ。
　獣やエンブリオの跋扈するこの世界では、下手に情けをかけてもどうせいつか死ぬだけだ。
　もう誰にも分からないほど遠い昔から、部族はそうして存続してきた。
　その在り方に誰も疑問を覚えなかったのは、定住の民との接触も必要最低限だったからだろう。
　他の在り方を知らなければ、疑問に思うことさえないのだから。

　そんな暮らしの中で、それでも彼は妹に負い目のようなものを感じていた。
　妹が差別されているわけではない。
　立場相応に、両親からの愛情も注がれている。
　だがそれでも、自分と違って命の保障がない世界に生きる妹に、後ろめたさがあった。
　どうして自分だけが特別なのだろうと、幼いなりに煩悶したものだ。

　幸いと言うべきか——妹には戦士としての才能があった。
　体力では男の戦士には敵わないが、それを補って余りある冴えを見せた。
　いつからから妹は、特別ではない戦士達の中で、ほんの少しだけ特別になっていた。
　それでも彼との間には、埋め難い隔たりがある。
　妹は自分を慕ってくれているが、慕われるほどに彼は苛まれていった。

　そうして彼は、嘘をつくようになった。
　それまでできていたことも、できないフリをして。
　不出来な後継者、愚かな兄という嘘を己に課した。
　ただの阿呆のように振る舞って、自分と妹を比較させた。
　“兄と違って妹は優秀だ”——部族の中で、それが当たり前になるほど徹底した。

　何故そうしたのかは分からない。
　どんなに妹が評価されても、特別にはならない。
　生まれた順番や性別が違うだけで、決まってしまったものは覆らない。
　妹からも愚かな兄として軽蔑されるようになったが、それでも彼は嘘をつき続けた。

　家族としての親愛の情はあったが、それこそ妹を特別愛していたわけではない。
　ただ、どうしようもなく世界に耐えられなかっただけなのだ。
　その手段として、自分と妹の価値を逆転させようとしたのかもしれない。
　変わる筈がないと知りながら、みっともなく足掻き続けていたのだ。

　そしてある日——妹は部族のために、捨て駒になることが決まった。
　新王パラダイスによるネクターの独占。
　それに端を発する一揆に加わるかどうか、見定めるための生贄にされたのだ。

“いやいや、おかしいだろ——？”

　疑問を覚えたのは彼だけだった。
　部族の戦士達も、あまつさえ両親までもが、名誉なことだと喜んだ。
　部族のために死にに行くことが、素晴らしいことだと誰もが信じて疑わない。

“待てよ、本気なのかよお前ら——！”

　目を覆うほどの違和感。
　ずっと感じていた歪みを直視する。
　彼らは間違っている。
　喜んで死にに行くなんて、真っ当な生き物のすることじゃない。
　なのに。
　きっとこの世界では、自分こそが間違っている————。

　妹が旅立った後、彼は人知れず嘔吐した。
　止められなかった自分に。
　間違っている世界に。
　間違ってしまった自分に、吐き気がした。
　どうにかしたければ、もっと早く、何かするべきだったのだ。
　何もしなければ、何も起こらない。
　せめて動いてさえいれば——間違ったままでも、何かを変えられたかもしれない。

　後悔の念から、彼は妹との連絡役に志願した。
　本来はもっと練達の戦士がすべきことだが、もう逃げてはいられない。
　嘘つきなりに口八丁で丸め込み、連絡役の座をもぎ取ってみせた。

　そうしてたまに、妹と話すようになった。
　広い世界に触れて、妹の価値観も色々と変わり始めているらしい。
　それを喜ばしいことだと思いながら、どこかで危ういとも思っていた。

　何故なら妹は、何も知らないのだ。
　新しく見るものの全てが眩しくて、妙な道に逸れてしまうかもしれない。
　だから気取られないように、こっそりと見守って来た。

　——その妹が、新しい国を目指すと決めたのは最近のことだ。
　王のいない国を作り、皆で治め、皆で責任を負う国を目指す。
　それは素晴らしいことだと彼も思ったが——すぐに吐き気を覚えた。

“いや、だって。王が一人の国から、特別な人々が民を治める国になるだけだろう？”

　嘘偽りなく、全ての民が政治に参加するなんて不可能だ。
　ならば妹が目指すそれは、どこかで瓦解する。
　権力を勝ち取った、特別な誰か達が治める国になるだけでしかない。

　それでも、彼は見守ろうと思った。
　そんな国でも、今よりはマシなのかもしれないと思ったから————。


　————だが、彼は未だ自覚していない。
　喜んで死にに行くのが、真っ当な生き物の行いではないとすれば。
　人生の半分以上を嘘で塗り固め、平然としているのも真っ当な生き物ではない。
　彼が妹に覚えたものも、負い目ではなく。
　妹の理想に吐き気を覚えたのも、危うさではない。
　つまるところ——彼は病的なまでに、不公平が嫌いなだけなのだ。

　広い世界を知らなかったのは、誰あろう、彼の方だったというだけ。
　アシリアイノ——「新しい人」の意味を持つ名の青年は、妹を通して世界を知る。
　間違ってしまった者が、間違い続けるがままに、新たな間違いを得ようとしていた。