変化は、一瞬だった。
　瞬きの間にも満たない空白。
　その直後、玄守 カサネという青年は掻き消えた。
　少なくとも、朽葉にはそう“見えた”。


「……ふぅん。思ってたよりかは悪くねえな」


　声は同じだ。
　だが口調が、言葉が、彼の青年とはまったく違うものになっている。

　アレは、誰だ？
　確認するよりも、周囲に蠢く異形共が襲い掛かる方が先だった。
　何しろ、今は戦闘の真っ最中だったのだから。


「あーぁー…堪え性の無い奴はモテねえぞ？」


　けれど一切動じることなく、寧ろ笑みを含んだ声で告げて、彼は足を一つ踏み鳴らす。
　その所作一つで、空気が変った。
　音も無く、気配も無く唐突に訪れた変化。
　足元から突出した影が槍の様に異形を貫き、突き刺し、絶叫と血と腐臭に似た不快な臭いを撒き散らす。


「なかなかの“巣”だな……さて」


　周囲を血と悲鳴で塗り替えた青年が——青年の姿をしたものが、ぐるりと周囲を睥睨する。
　その視線に曝されたとき、朽ち葉は自分の髪がぶわりと広がるのを抑え切れなかった。
　殺意も闘志も無いままで首筋に刃を当てられたような、何の感慨も無く命を脅かされるかのような感覚に陥り、朽葉は思わず一歩後退った。
　しかし、朽葉の予想に反して青年の姿をしたものは朽葉たちには興味を示さなかった。
　彼が見据えるのは、ただ一点。


「お前か」


　その視線の先を追うことは朽葉には叶わない。
　ただ、その声が。
　青年の声を借りた男の声が、いっそ優しいと思えるほどの柔らかさで明確な殺意を抱いたことだけは分かった。





　悲鳴、怒号、断末魔——…
　爪も牙も触手も、剣も槍も術式ですら彼を捉えることはできない。
　手にしたマシェットナイフを翻し、弾き、受け流し、打ち据えて、鼻歌でも歌い出しそうな軽い足取りでダンスホールを進んで往く。
　絶命した異形その悉くが床に伏すと同時に砂のようになって消えていく。


「なんだ、もうちょっと頑張れよ？おら、足止めんなー？」


　口唇に笑みを、その目にはなんの情も窺わせることなく、彼はひたすら殺していく。
　挑み来るものは刃で応戦して斬り伏せ、逃げを打つものは容赦なく影で抉り穿った。
　まるで煙草の火でも消すように。
　あたかも瑣末なことと切り捨てるように。

　そこかしこで異形が弾け、“核”となった者達が嘆きの声を上げる。
　老いも若きも男も女も、あらゆる人間が居た。
　哀れに耳朶打つその声を、聞けば憐憫の情を抱かずにはいられないその嘆きを、けれど男は意に介さない。
　嘆きを聞いても、助けを乞われても、彼は笑みの形にした口唇を崩さないままだ。
　そしてその手際は淡々と、粛々として、そこに在るものを刈り取っていくだけだった。

　事実、その嘆きが彼の心を揺さぶることはない。
　何故なら彼にとってそれらは剣戟の音に等しものだからだ。
　鬨の声の様に、軍靴の響きのように、馬蹄の轟きのように、彼の過ごした人生の傍にあったものたちだったからだ。

　守るというにはあまりにおこがましい。
　取り戻すというにもまだ温い。
　奪うといえばまだ幾分か見合うだろうか…
　そう認識する程度には、彼は“連中”を狩り続けてきた。
　何も知らない者が見れば、殺戮というだろう程度には、殺し、無に帰してきたのである。


「あーあ…やーっぱり、そゆコトになんのネ…」

「相も変らず、彼の女神は趣味の悪いことだ…」


　呆れたような獣の声は彼にとって随分と久しぶりだったが、互いに手を休めることはない。
　影の間をすり抜けて、炎の間隙を縫うように、彼と彼らはダンスホールを“掃除”していく。


「何処まで許されてる？」

「んー…好きにしろ、とは言ってくれたけど…ネェ？」

「屋内では出来る範囲は限られるな」
　
「随分とまァ、甘やかすもんだ」


　呆れたという様に肩を竦める。
　それは青年のことなのか、獣のことなのか…恐らくは、両方なのだろうが。
　その言葉の真意を正しく察した双頭の獣は、黒い炎と化している体を揺らめかせながら笑みを浮かべる。


「ソコが主殿の可愛いトコなんじゃナイ」

「我らが主殿は、我らを甘やかすのが上手いゆえな」

「なんだよ、随分と肩入れしてるな？」

「ソウネ…俺らもちょっと予想外だったケド」

「されど我らが“王”よ…その方は、間違いなく我らが主なのだ」


　轟と黒い炎が唸りを上げて青年の側面から遅い来る異形を焼き尽くすと、そのまま炎は彼の足元に懐くようにまとわりついて、その傍らに獣の姿をとる。
　数百年前、青年の中にいる男が生きていた時代にそうしていたように。
　主を守るが如く侍り、襲い掛かってくる異形達を牽制し、或いは焼いて、距離を保った上で更に口を開いた。


「俺達を初めて捻じ伏せて、名前をくれたのは貴方だけれど」

「貴方の魂の名残を懐かしく思い、傍に身を寄せたのも確かではあれど」

「でも、ネ…こうして並んでも違和感のが強いとは思わなかったなァ…」

「貴方と駆けた戦いを忘れられず、当代の主が戦場を踏むことを願った…だが…」

「我らの牙は、我らが主のために」

「我らの炎は、我らが主のために」


　双頭の獣が歌うように告げると、その身は再び黒い炎へと熔けていく。
　戦意を喪失して部屋の隅で震える小物にも炎は容赦なく襲い掛かって、小さく甲高い断末魔へと変えていった。


「やれやれ…煉獄の魔獣を篭絡するとは、流石我が子孫と称えればいいのか呆れればいいのか、判断に迷うな」


　本気とも冗談とも取れる苦笑を浮かべつつ、その手はナイフを翻す。
　金属同士がぶつかるような音がして、一瞬火花が散った。
　手首を返し、昆虫の脚にも似た部位を弾くと歩を詰める。
　気配は無く、足音もせず、実に軽やかな一歩だ。
　だがその詰めた一歩分の距離で、刃は相手の心臓に届いている。
　微かな音を立てて、また一体の異形が砂と化して消えた。


「“脚”はこれで終い」


　歩を詰める。
　頑強な殺陣のような物を携えた異形が立ち塞がる。
　刃を構えるモーションに相手が応じた瞬間、足元の影が槍と化して股間から脳天を突き抜けた。
　異形は砂と化すより先にそのまま影の中へと引き摺り込まれ、足元からは何かを噛み砕く音が響く。


「だァからもうちっと頭働かせろってんだよ…“骨”もこれで終いか？」


　心底面白くないというように吐き捨てて、また歩を進める。
　青竜刀にも似た刃状の甲殻を腕に持つ異形が突っ込んで来る。
　刃の腹で受け止めれば、バキンと鈍い音が響いた。
　舌打ち、耐久限界値を越えて折れたナイフから手を離す。
　嬉々として追撃の腕を振るう異形の鼻と思しき部位の前で、男は一つ指を鳴らした。
　瞬時にその手首周りに攻勢術式が展開され、影が凝縮し、針状になった。この間１秒にも満たない早業である。
　肉迫していた異形は止まることができず、自らの眉間にこの針を突き刺す羽目になって動きが止まった。
　すぱん、と小気味いい音と共に異形の首と胴は物別れとなって砂と化す。


「あっちゃー…まずったなァ……怒るかなー…怒るよなー…ま、しょうがねえかー…“腕”もこれで打ち止めっぽいし」

　歩を止める。
　そこは既にダンスホールの最も奥…周囲から一段上がった床には本来主催者が座るのだろう立派な椅子が設えてある。
　その椅子に座っているのは金の巻き毛が可愛らしい、珊瑚色の目をした幼子だった。
　社交界に名を連ねるには随分幼いその子供は、金糸の刺繍が施された豪奢な淡い紅色のドレスを身に纏い、レースの扇子で口元を隠し、眼下の惨状を見ていた。
　その目に恐怖といった怯えは無く、代わりに心底忌々しいといわんばかりの視線を寄越してくる。


「よもや、ここまできて“門番”の手駒に阻まれるとは…」


　鈴を転がすような幼く可憐な声なのに、ゆるりと吐き出された言葉は怨嗟の情に満ちていた。台無しである。
　けれど青年は肩を竦めてただ一言。


「そりゃ悪かったな」


　まったく悪いとは思っていないのは明白だった。
　ゴッ、とブーツが重い音を立てる。
　その気になれば音もなく歩けるが今はそんな気も起きないというように、どこか気だるげですらある歩みだ。
　さして時間も掛からずに少女の前まで距離を詰める。


「見事である。そなた、名をなんと申すのか？」


　青年を見上げ、少女は臆することなく問いかけた。
　それは少女が本来持ちえたのだろう気品に満ちていたが、青年は——青年の中に居るものは、そんなことに目もくれなかった。

　ただ、少女を見下ろす紫の瞳が血のような紅に染まる。
　口元に浮かべた笑みは、それまでの飄々とした様子が嘘のように侮蔑に満ちていた。


「ガキを喰らった下衆に名乗る名なんざ、持ち合わせちゃいねえよ」


　青年の足元に影が広がる。
　巨大な双葉のような形に広がったそれは、まるで食虫植物が獲物を捕らえるように…鰐がその口を閉ざすようにして合わさり、あっけなく少女を飲み込んだ。
　ぐしゃりと何かが潰れる音を最後に、静寂が染み渡っていく。


「ま、こんなとこかね」


　こきりと首を一つ鳴らすと、振り返る。
　あれだけの戦闘を繰り広げておきながら、青年にはいささかの息の乱れもない。
　散々浴びていたはずの返り血も、今は綺麗さっぱり消え失せている。


「はーぁーいー、オッツカレー！」

「やれ、屋内というのはやはり好かんな…」


　黒い炎から再び元の姿に戻った双頭の獣は、そういうと暢気に伸びを一つした。
　その様子に、状況を図りかねる朽葉は困惑する。
　周囲に数多くあった気配が、一気に霧散したからだ。


「……終わったの？」

「ああ、終いだ」

「カサネは？あの子は無事なの？」

「そんな心配しなくても大丈夫さ。あいつも途中から見てたからな」

「アッレ？じゃあナニ？主殿をワザワザ眠らせてたってコト？」

「過保護なのはどちらだろうかな…」

「成り損ない一匹狩るのにゲロってたやつに見せれると思うか」

「過保護だネ」

「過保護だな」

「あー！うっせぇ！」

「いったぁー！」

「なんという理不尽!!」


　双頭それぞれに手刀を見舞った青年は一頻りぎゃいぎゃいと騒いでいたが、その足元に擦り寄った獣に気付いて息を吐く。
　銀の一角を持つ影の獣と、対のような金の双角を持つ獣が青年を見上げていた。


「時間か…やれやれ、忙しないねェ…そんじゃあクレノ、後は頼むぞ」

——御意のままに


　青年が応じた一角の獣の首をわしわしと乱暴な仕草で撫でると、継いで双角の獣が頬擦りする。
　双角の獣が足元の影へと身を沈めれば、同時にそれまであった存在感は掻き消えるように無くなった。
　がくりと青年が膝を着く。


「カサネ！」

「大丈夫…ちょっと、色んなとこに力入らないだけだ…」


　疲労困憊のようだが、いつもの青年の口調だった。
　それに朽葉はほっと安堵の溜息を零す。


「よかった…」

「ん。心配かけたな…お前らも、よくやってくれた」

「いんやーぁ、俺らは主殿のご命令をチュージツに実行してたダケだし？」

「うむ」

「そうかよ…」


　力なく笑って、青年は深く息を吐く。
　体中の筋肉が、骨が、筋が、悲鳴を上げていた。
　足りない筋力を魔力で補うとか、一体どういう術式なのか。
　あれが、本家ヴグリードの誇った魔狩りの名手の実力かと、この身を以って体験してなお信じられない。

　それでも…
　心の奥に、火が点る。
　目指すべき頂は遙か彼方。
　そこに至る道の険しさは折り紙つきだ。
　けれど、でも、しかし—…

　諦めてなるものかと胸の辺りの服を握り締める。
　約束のために。
　帰るために。
　立ち止まっている暇などないのだ。

　笑う膝を叱咤して、どうにか立ち上がる。
　酷い有様だが、今の自分の位置はここ。
　ならば最早、進む他はない。


「行くか…」


　青年は、新たな歩を刻む。

















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