深く、深く、重苦しい闇の底にいる。
　体は熱く、だるく、息苦しい。
　どこだここ…と、茫洋とした暗闇に目を凝らすものの、何も見えない。
　自分は一体、どうなってしまったのか…



（ああ、そうだ……熱、出たんだったか…）



　なんで熱なんか、と考えればずぶ濡れになったことを思い出し、どうしてそうなったんだっけ…と記憶を辿って、気付けばカサネは雨の森の中に立っていた。
　肌を打つ雨の感触、水を吸ってまとわり付く衣服、右手に握っているマシェットナイフの重み…どれもこれも、あの時と同じだ。



「あ…ぁ……」



　ひび割れたような、掠れた声が耳朶を打つ。
　歪に捻れた手足と、ぶよぶよに肥大化した醜い胴体の異形が目の前で蹲っている。
　びちゃっと鈍く爆ぜる音がして、その異形の胸が裂けた。
　カサネよりも逞しい、男の腕が伸ばされる。



「た…たす、け、て…」



　腕を掴まれ、縋られる。
　涙に濡れた目がカサネを見上げる。
　そこには懇願と、後悔と…数え切れない感情があった。
　感情——ココロ。ヒトを人たらしめるものの一つ。

　そう…
　彼は、カサネに助けを求めた男は、確かに人間であったのだ。



「助けて…たすけて、く…、……た…ス、ケて…」



　掴まれた腕に爪が食い込む。
　壊れたように助けてと男は繰り返す。

　できることならカサネだって助けたかった。
　どうにかしたかった。
　でも——…



——連中を救う手立てはない



　無慈悲なクレノの声が背中に向かって投げ掛けられる。
　血の色をしたその目は冷たく、淡々とカサネに縋りつく男を見ていた。



——魔族に喰われるということは、その存在を侵蝕されるということ

「たすケて…タスけて、くれ…」

——その魂は、肉体は、世界にあって世界から隔絶される

「イヤだ…たのむ……助けてくれ…」

——お前がものを食い、体の一部となったものを引き剥がすことが出来ぬのと同じことだ

「し…死ぬのは嫌だ！助けてくれぇ!!」



　腕を、服を掴まれ、這いずるように男がカサネに懇願する。
　ふるふると首を振り、異形に取り込まれた下半身を揺すって、死にたくないと訴える。
　それはカサネの心を抉り、柔らかい部分に容赦なく傷を付ける。

　例えば、そこに疑う余地もない純然たる正義があったなら、カサネはきっとそれに縋っただろう。
　例えば、カサネがもっと割り切れるような性格だったなら、こんな思いはしなくて済んだだろう。

　何故、自分なのか。
　どうしてこんな手段しか選べないのか。
　果たしてそれは正解なのか—…

　答えは出ない。
　だが、カサネは手の中のナイフを握り締める。
　どれ程迷い、後悔しても……たった一つだけ、動かぬものがあった。

　刃を振り上げ、自分に縋る男に突き立てる。
　悲鳴、絶叫、断末魔…耳にこびりつく許しを請う声。
　それでも、さらに深く。
　その心臓へと刃を沈めた。

　誰かの命を奪うよりも、自分がけして消えない事実を背負うよりも、重要なこと。
　この名を呼んでくれる人たちの、この身を案じてくれる人たちの、歩むその先。
　自分の手の届く範囲にいる人たちが、こんな風になってしまうことがなくなるのなら。
　その可能性が、少しでも減るなら。


　
「……ごめん」



　きっと謝って済むことじゃない。そんな資格もない。



「ごめんなさい、でも…」



　見上げてくる涙の溢れる眼差しが絶望に染まるのを真正面から受け止める。
　掴まれた腕が痛い。
　縋られた胸が痛い。
　刃を握り締める手が痛い。

　だけど——…



「俺は……」



　それが誰かの犠牲の上に成り立つものなのだとしても。
　偽善と呼ばれる行為なのだとしても。
　いつかカサネが裁かれる側に回るのだとしても——

　あの人たちを…———を、守ることができるのなら。



「俺は！あの人を、守りたい…!!」



　叫んだ声を掻き消すように雨の音が一際強くなったかと思えば、ブツリと一瞬で全てが闇に塗りつぶされた。
　驚いて見回したが、森も、異形も、クレノでさえもいなくなっている。
　手の中のナイフも、濡れた上着もない。

　途方に暮れる。
　どうしたら…何処に行けばいいのだろうか。
　少なくとも、ここにいるべきではないと分かるのに、見渡す限りの闇はどこにも繋がっていないように思えた。
　そのとき——


ひらり…


　視界の端を過ぎったものにはっとして視線を向ければ、青白い燐光を纏う火蝶がひらりひらりと翅を揺らして飛んでいる。
　それはカサネを待つように同じところを飛んでいたが、やがてふわりと移動し始めた。
　条件反射のように後を追う。



『——…“標の蝶”。拙者の一族に伝わる術でござる』



　マフラーに“印”を焼き付けた人の声が脳裏に甦っていた。



『——“道に迷った”時には、それがカサネ殿の望む道への標となろう』



　カサネは既に、それが事実であることを知っている。
　だから、後を追うことに迷いはなかった。

　相変わらず体は重く、息苦しい。
　歩みを止めてしまいたいと何度も思った。
　でも、その度に火蝶は励ますようにカサネの周りを飛び回り、先を促す。
　一歩、また一歩…荒い息を吐きながら歩を進めていくと、ふと見知った間隔が肌を掠めた。
　重苦しいだけだった闇の中に、ぽつりぽつりと星のような輝きが混じりだす。
　
　息苦しさは徐々に薄れ、懐かしい空気が肺を満たす。
　天の川のような光の流れが走るその闇は、カサネのよく知る優しい闇だ。

　歩みを止めたカサネの周りを火蝶がひらひらと舞い、正面に戻ってくる。
　“もう大丈夫？”と問われている気がして、一つ、頷きを返した。



「ありがとう。もう、平気だ」



　それは大半が強がりであったけれど、揺るぎないものを見つけたのもまた事実。
　火蝶はしばしその場に留まっていたが、やがてはらりと解けるようにして姿を消した。

　ありがとう、と。今一度小さく呟くように礼を述べ、カサネは顔を上げる。
　帰らなければ…自分がいるべき場所に。
　自分の成すべきことを、果たすために。

　目を閉じる。
　体を、自分の今在る場所を意識する。
　覚えのある浮遊感に包まれ、感覚が鮮明になっていく。








　そうして目を開けた先の天井は、もう見知った場所だった。
　

　　　　　　──人もをし　人も恨めし
　　　　　　　　　　　あぢき　　　なく
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　世を思ふ故に
　　　　　　　　もの　　　　　　思ふ身　　　は───