（※ENo.1952さんの前回からの日記とリンクしています※）



それは、宿にて身を休めている時だった。

柱に背を預けて座したまま、閉じられていた隻眼がふと開く。
五感の外の感覚が、夢現の合間にそっと撫でられる様な感触を捉えた。
そのほんの微かな気配に気付くと同時、


——ふわり


青い火の蝶が、翅を揺らめかせながら忍の手の甲へととまる。
先の感触はやはり、“標”にて繋がった者が己を呼ぶものだった。
その声無き声が誰のものかは、繋がりを持つ忍には容易に知れた。
この世界で龍貴の他に蝶の印を持つもう一人…青マフラーの青年の顔が、すぐさま脳裏に浮かぶ。
長躯が、音も無く立ち上がった。



「…所用が出来たでござる。暫し出る故——夕餉は、先に済ませて構わない」



手短にそう龍貴とカツヱに言い置くと、忍は拠点の宿を後にした。



＊



ひらひらと舞う蝶の後を追えば、いつしか街道を逸れ、森の中へと足を踏み入れていた。
夏の頃のむせ返る様なそれとは違う、どこか落ち着いた土と緑の匂いが辺りを包む。
すっかり色付き始めた木々の中、青い軌跡が導く先へと進んでゆく。



（……しかしこれは、何事だろうかな）



まばらに積もる落ち葉の上を静かに踏み進みつつ、忍は心中で首を傾げた。
というのも、初めに感じた通り己に触れる“標”の感触——
その呼び声が、やけにぼんやりしたものだった為だ。
幸いな事だが、例えば命に関わる様な切羽詰ったものは伝わってきていない。
だが（それが良いか悪いかは別として）余程の事がない限り、あの青年がこれを使う事は無いという事もまた、知っている。



（大事無ければ良いが…）



変わらぬ表情の下、忍は些か生き方の不器用な青年の身を案じた。

——と。

忍の足が、不意にぴたりと止まった。
そこに踏み込んだ瞬間、感じた違和感。何らかの意思。
すっと気配を絶つと赤い隻眼を周囲に巡らせ、近くに他者の気配が無い事を確認する。
再度蝶を見遣れば、それは一見行き止まりに見えた道へと真っ直ぐ向かい——
そのまま、立ち塞がる木々をするりとすり抜けた。



（——術式…目くらましの類か）



義眼に赤い光点が点る。
ひどく周囲に馴染んだそれは、目に映る景色を微妙に歪めて方向感覚を狂わせるものの様だ。
この類の術は一度気付きさえすればその綻びを見つけるのは容易で、見渡せば、そこかしこにぶれや歪みが見て取れる。
だが巧みに森の気配に溶け込んでいる為、こういった術に縁がない者であれば、まず気付く事すら難しいかもしれない。
ただこれが、悪意や害意に因るものでない事は、術式の指す道筋を辿ってみて分かった。
感覚を狂わされ、迷った者が行き着くのはきっと、森の入り口付近だろう。
これは、何かを“隠し、守る”だけの為に張られた結界の一種だ。



（これをカサネが…？いや、…）



彼の、そしてその従者達が使う術式とは、少し異質な気がした。
彼らとて結界の術式は扱うかもしれないが、“こうではなかろう”と感じる。
では誰が——と思うも、いずれにせよこの先に居るのは間違いない。
忍は再び結界の張られた森の中、蝶の導く先へと足を向けた。



＊



程無くして、木々の向こうに小さな小屋らしきものが見えてきた。
廃屋、という訳ではないらしい。すぐに小屋を出る人影が見えて、死角の位置へと身を移す。
出て来た人物は、どうやら若い女の様だ。
その瞼がずっと伏せられたままな事に気付くのに、然程時間は掛からなかった。



（——さて、どうしたものか…）



蝶の反応から、どうやらあの小屋に青年が居るらしい事は分かった。
だが、共に居るらしき彼女は——
逡巡するのも束の間、迷い無くこちらへ向いた顔に、反射的に思考を打ち切る。
目を閉じたままの穏やかな笑みは、明らかにこちら…忍へと向けられていたからだ。



「……何か御用かしら？」



落ち着いた、柔らかな声が掛けられる。
成程、確かに彼女はこちらに気付いている様だ。
完全に殺している訳ではないが、それでも身を潜めた忍の気配を察するとはな…と、胸の内で呟く。
見えぬが故の、感覚の鋭さもあろう。
が、計った様なタイミングで出てきた事からも、それだけではあるまいなと思う。
恐らくあの結界を張ったのは彼女で——ここは文字通り、彼女の縄張りなのだろう。
自分の張った結界に侵入され、術者がそれに気付かない訳が無い。
一先ず、その様子からこちらへの敵意は感じられない。
忍は女の前へゆっくりその身を現すと、ほんの少し歩を進める。
相手に警戒されぬ程度の、そしてこちらも何か起きても対応出来る程度の距離まで。



「…不躾に立ち入り、相済まない。…“これ”に呼ばれたものでな」



そう言うと、すいと出した掌から青い火蝶が放たれ、ふわりふわりと軽やかに女の傍を舞った。
例え見えなくとも、彼女ならその霊気を捉え、察するものと踏んで。
そうして忍は、直接青年の名を口にして尋ねた。



「彼に——カサネに、何かあったのでござろうか」









▼：to be continued


　

（ふと感じる違和感。一体何だろうかと首を傾げ、直ぐに男の口調のせいだと気付く。
これもまた、普段の彼の口調なら目立つからなのだろうと思い至り、勝手に納得する）

（促す言葉にマフラーを引き上げ頷いた。
背に軽く触れた手の感触に僅かに肩が震えたが、顔には出さずにやり過ごす。
歴戦の貫禄を感じさせる頼もしい背中を追うように、足を踏み出した）

（物珍しげに視線を巡らせる。
市場の雑踏はカサネが恐れを抱くほどのものではなく、
呼び込みの声も、応じる客も、早朝ということもあってかどこか穏やかだ。
のんびりと歩きながら男の説明を聞き、“米”という単語に反応して男に示した方向へ
顔を向けたその時——今まではなかった威勢の良い声が自分へと向けられて）

（ビクッと体が震え、マフラーの下でひゅっと息を呑む音がした。
まるで驚いた猫の如く、一瞬毛を逆立てて固まってしまった青年は、
傍にいた男を盾にするようにその背後へと身を隠す）

（ここ数年をなるべく目立たぬようにと過ごしてきた身には、些か刺激が強過ぎた。
ドキドキと暴れる鼓動と現状把握に手一杯の青年は、
小さく震える自分の手が、盾にしている男のシャツを握り締めていることには
どうやら気付いていないようである…）