お前が決めろ——突きつけられた選択肢と、差し伸べられた掌。
　目の前のそれらを前に、カサネが混乱するのも無理からぬことだろう。
　戸惑い言葉を捜す間もアマネの視線はひたとカサネを捉えて離れず、ここ数年他者の視線から逃れて暮らしてきたカサネには非常に居心地が悪かった。
　そろりと視線を逸らしても、相手の視線が離れないことが怖い。

　じっとカサネの表情をみつめていた男が、不意にその紅眼から鋭い光を消した。
　それだけで気配は一変し、張り詰めていたものは優しく穏やかな…さながら、幼子を見るようなそれへと変わる。



「お前には、守りたいものはないか？」



　口を開いた男の声は穏やかで、カサネの答えを急かすような気配はなかった。
　だから、つい顔を上げて視線を戻したその先で…彼のその目を見てしまった。

　静かな目だ。
　けれど、深い感情を宿した目だと思った。



「特定の誰かでも、周りの不特定多数でも構わない。お前が世界に立つために、存在するために、必要なものはいるか？」



　世界に立つために…
　そんな風に、考えたことはなかった。
　自分は気付けばそこに在って、そうであることが当たり前だった。
　だが“あの日”以降は、ひたすら自分の気配を殺した。
　息を潜め、目を伏せて、周りが自分に気付かないように。
　自分が周りを傷付けないように。

　黙り込むカサネの様子をどう思ったのか、アマネはくくっと低く笑った。
　紅眼がカサネの顔から外れ、足下に落とされる。



「……お前の中に眠るものはな、そんな雁字搦めにしたって無駄なんだよ」



　男の言葉に、心臓が跳ねる。
　一体何を知っているのかという不快感と、見透かされた恐怖が湧き上がる。
　なのに、心に抱えた自分の力へ恐れを既に知られているということに、全く予想外なことだが…安堵した。
　目まぐるしく湧き起こり、ない交ぜになる感情に追いつかない。
　言葉が喉の奥で絡まってしまったかのように否定も肯定もできずにいれば、男はまた目を細めて笑った。



「そりゃ分かるさ。俺達のような生き物は、誰しも通る道だからな」

「誰もが自分の中に在るものを知り、恐れ、折り合いをつけて力にするんだ」



　男が差し出していた手を引っ込め、傍らの獣の頭をぽんと撫でる。
　角の後ろを掻くように撫でられてグルグルと喉を鳴らす獣に、男が向ける目は優しい。



「傷付けることが、怖いか？」



　紅い眼が、再びカサネに向けられる。
　頷きを返して、あまりに自然に自分が頷いてしまったことに驚いた。
　目の前に立つ男はそんなカサネの様子を笑ったり、否定したりしなかった。
　ただ、そうかと同じように頷いた。
　たったそれだけ。
　男はただ頷いただけなのに、何故か…許されたと思った。



「怖い」



　震える声が情けない。
　けれど、男は静かにカサネの言葉を聞いてくれる。
　吐き出せずにいた心を、そのままに受け止めてくれる。



「枷が外れるのが、怖い」



　滲んでいく視界が嫌で目を閉じる。
　けれどそうすれば甦ってしまう…

　“あの日”、傷を負い、怪我を負わせたことに打ちのめされ、怖いと零した自分に父親は激昂した。
　軟弱者と声高にカサネを責め立てて、お前が弱いせいだと決め付けた。
　反論する気すら、起きなかった。
　父親の言葉に見えない傷を増やしながら、ああそうか、と妙に達観した気持ちになったのを覚えている。

　何を言っても無駄なのだ。
　父親が欲しいのは家を継ぐための息子であって、“カサネ”ではない。
　彼が理想とする息子以外は認められないのだと。

　そうして、カサネは言葉を紡ぐことを諦めた。
　弱さも辛さも、吐き出せば否定され、ただ他者の理想像を押し付けられるのならと、口を閉ざした。
　深いところで枷を嵌めて、皆が“カサネ”に気付かぬようにと息を殺すことを覚えた。



「誰かを傷付けるのが、怖いんだ」

「それでいい」



　男の言葉に閉じていた目を見開く。
　開いた視界に男のブーツの爪先が入って慌てて顔を上げれば、紅い眼は笑いも怒りもしないでカサネを見下ろしていた。



「力を恐れるのは、その力がもたらすものを知っているからだ」

「そして、傷付けることを恐れるのは、その痛みを知っているからだ」

「それらを弱さと断じることは簡単だろうよ。けどな、知っていなければ、できんこともある」



　ぽん、と頭に手が載せられてくしゃくしゃとかき混ぜられる。



「お前はそれでいいさ。なんも負い目を感じる必要はねェよ」

「……っ」
　


　息が詰まる。
　鼻の奥がつんとして、涙が零れそうになるのを奥歯を噛み締めて耐えた。
　駄目だ、泣くなと必死に自分に言い聞かせる。
　肯定され、認められる嬉しさに流されてはいけない。
　彼が自分に突きつけた選択肢を、カサネは忘れてはいなかった。

　袖口で乱暴に目元を拭って、男の紅眼に自分から視線を合わせれば、ニッと口角を上げた笑みが寄越される。
　頭の上に置かれたままだった掌がもう一度わしゃりと髪をかき回して下ろされ、さて、と男が口火を切った。



「少しは揺さぶれたかねェ？」

「……何だよ、それ」

「お前くらいの年頃は色々グラグラしてっからなぁ…」



　くつくつと楽しげに笑う男にムッとして目を眇めれば、そんで？と全く気にした様子もなく促される。
　釈然としないものを感じながらも、それでも答えは決まっていた。



「……俺は、この力が…闇の魔力がなんで自分に宿ってるのか、知りたい」

「こんな力が、血族の色が、どうして俺に在るのかが知りたい」

「この力が俺に宿っていることに、意味があるんなら…」

「それを知るために、俺にできることがあるっていうのなら…」




　手を伸ばす。
　自ら選ぶ。
　知る、ということを。

　真っ直ぐ見上げる紫の眼に、紅眼はゆるりと笑みを浮かべて。
　いい子だ、と嬉しげに呟いた。













　そうして青年は、一歩を踏み出す。